2008/06/30

[ドイツより] 負けちゃった~:IchとWirの間で...

ヨーロッパ杯決勝戦。スペイン対ドイツ。ドイツ負けちゃった。

繁華街の飲み屋はみな、店の外の歩道にテーブルや椅子を出していて、みんな外でテレビを見ながらビールを飲んでいるわけだが、面白かったのは、試合終了の笛がなってから15分ほど、その繁華街が、シーンと静まり返ったこと。これまでの勝った試合とは、好対照。この度は、勝ったときのざわざわとした集合感情の起伏が、微塵も感じられない。

酔っ払って「♪Viva~España~♪」と歌いだした酔っ払い軍団を除いては、みんな神妙な面持ちで、黙って事態を飲み込んでいる。なかには隣人となにやら小声で話す姿も見られるが、それがせいぜい。これこそドイツらしいstoicismではないか、という気がした一瞬だった。「Nein!Nein!」とか叫びだす人は一人もいない。スペインが負けていたら間違いなく、スペイン中が一斉に「¡No, no, no, no, no!」とか「¡Dios mío!」とかの大合唱になっていただろう。

きっと先のセンソーに負けたときも、この延長線上の深い沈黙がドイツ全体を覆ったのではないかと考えられる。



話はちょっと変わるが、現代社会は岐路に立っている。Virginia Tech、9/11、秋葉原事件など、どれも一脈通じるところがある。社会が激変する渦中にあって、個人と社会が衝突し、その火花が方々に飛び散っている。そんな現代、ドイツなどには独特の安定感を感じる。

この間のブログで「ドイツ対トルコ戦、ドイツが負けたらドイツ国内のトルコ移民との間で軋轢が生じるのではないか」というようなことを書いたが、周りの同僚たちによるとこの懸念はトンデモ見当はずれらしい。彼らにとってその懸念は、常軌を逸した邪推のように映るようだ。「そんな野蛮なことは、考えもしなかったなぁ~」とでもいわんばかり。事実、翌日のニュースなどには、ベルリンでトルコサポーターとドイツサポーターが仲良く肩を組んで応援しているような画が、報道された。アメリカ人の感覚では当然考える軋轢なのだが、ヨーロッパ国の国民たるドイツ人たちにとっては、考えも及ばないみたいだ。



そのドイツ人の安定感は、煎じ詰めると、「We」という社会概念の安定感に帰着するような気がする。

ドイツは現在でこそ統一連邦ではあるが、地方による文化の違いも大きく、その実、歴史のほとんどは、小さな封建領土の緩い連合体として存在してきた。だから、「ドイツ人」という意識よりは、「ライン地方人」とか「ザクセン人」とか、そういう意識のほうがむしろ強い、と人は言う。また人種の上でも、ヨーロッパのど真ん中に位置する都合上、相当スラブ系の濃い人から、いかにもゲルマン系の人、中にはラテン系を匂わせる人まで実にさまざまであり、ドイツ語とドイツ文化という緩い縛りによって、ひとつの民族的ジンテーゼをなしている。二次大戦後の大移住はポーランドなどに住んでいた東部ドイツ人を国土全体に分散したし、東西分裂は、「東ドイツ人」「西ドイツ人」という新しいcategoryをも生み出した。さらに現代ではEUの中心的メンバーとして、ヨーロッパ人という自我もしっかりと定着しているようだ。ミクロ社会のレベルでは家族を大切にして生きている人が多いような印象を受けるが、そういうレベルでの社会自我も、保たれているようだ。こういった多重の玉葱式社会構造が、流動的な現代社会において、ドイツに安定感をもたらしているのだと思う。つまり、ドイツ人にとっての「We」という概念は、奥が深いのだ。

一方、アメリカの「We」というのは、奥行きに欠ける。せいぜい戦争でもなきゃ、なかなか民心を束ねることができない。その点、オバマ氏はアメリカ国家の存在の核心を実によく理解してより建設的な「we」を築こうとしてる気がしてならないのだが、そうだとしても、「Yes we can」の「we」は、建国の理想や公平の理想などといった机上の概念に依拠する、ある意味ではnaiveで腰の高い「we」ではある。長い歴史を経てしか生まれ得ない、多重の奥行きは、そこにはない。人間の一生にたとえれば、高校生くらいの「we」にとどまっているのだ。

日本古来の「we」というのは、実をいうとヨーロッパよりもさらに奥が深いはずだった。でも、民族的・文化的な均質性に依拠していたため、現代社会と齟齬を生じ、その矛盾に耐え切れなくなっている。しかも、イデアとしてはっきり意識されてきた概念ではなく、むしろ風土に、そしてDNAに深く刻みこまれた潜在意識であるため、<都市社会で風土が見えなくなり、人間が生物学を超越する(かのような振りをしている)現代>においては、とたんに隠れてしまう。



仮にこのテーゼを受け入れるとして、日本社会はどういう社会を目指すべきなのだろう。

民族的均質性は、もはや望めない。血統の均質性を保つためには、北朝鮮のように鎖国をし、cosmopolitanな現代社会に完全に背を向けなければならないが、そうしたら現代日本は存続できない。とすると、日本文化・日本社会を救うには、文化的な基盤に一端立ち戻り、取捨選択のうえ水準を高め、ある意味では文化的な国粋主義を敢行する必要があるのではないか。

もちろん、西洋文化などに背を向けよというのではない。文化の相互影響は、そんな単純に割り切れるものなんかでは、ない。都合のよいことに、日本は古来から、異文化のある要素だけを抽出して日本文化に緻密に織り込むという、1500年以上にわたる歴史がある。しかし文化というのは、自らの重心なくしては、異文化を取り込むことはできないのだ。

中高の恩師である国語教師は「国語ができないやつに英語などできるわけがない」といっていたが、それはことの核心をついている気がしてならない。僕自身の自我がアメリカ文化と日本文化の微妙な折衷の上で綱渡りをしているような不安定なものなので、だからこそこういった矛盾がすぐ見抜けるのかもしれないが、どう考えてもアメリカ人ではない日本人が、日本人らしさを足蹴に一生懸命アメリカっぽく振舞っているのを見ると、醜くて仕方がない。これは文化・社会・経済、すべてにわたって、一様に感じることだ。ただ、鹿鳴館の鏡に映ってみえる姿は、実を言うと自分自身なのではないかと、今ひとつ気がかりではあるのだが。

文化は一般に借り物競争のようなものだというが、仮に日本は「超借り物文化」だとしよう。その特質をうまく生かすと、実に風通しのよい、開かれた文化的な国粋主義が可能なはずだ。あるいは逆に、ラーメンを極めたニューヨーク人とか、外人神父の座禅とか、99.99%の日本人よりも古典の知識の深いライシャワー氏とか、そういう「ガイジン」は、数限りないのだ。

守ることをせずには破ることはならない。だから日本文化の守るべき核心とは何か、そこら辺を真剣に探ること、そしてそれを死守することこそ、Homo sapiens japonicusに課せられた第一歩であろう。

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