2008/05/27

[旅日記] 小旅行2008 ベルリン(b-1) Reichstag

実験は詰まっているのだが、今週末は意を決してBerlinへ。目的は「地下鉄オペラ」のマチネ。それについては次々回。

それにしても時間さえあれば、したいことは山のようにある。たとえば先ごろ、友人のインド人が国許で結婚式をするからこないか、と招待状を送ってよこした。その彼女は本当に複雑な話で、旦那さんが一個下のカーストだというので親の猛反対にあい、むりやり駆け落ちのようにしてワシントンで司法結婚をしたのだが、そのときには何人かで立ち会って、小さなパーティーのようなこともしたものだ。何度か旦那さんの運転で、インド料理にも連れて行ってもらった。彼らはおいしいお店を知っているのだ。このたびやっと、彼女の親があきらめて、この2年間がなかったかのような顔をして親族一同で挙式するらしい。彼女の両親はNew JerseyにあるNew Yorkのベッドタウンのひとつに住んでいるのだが、彼女によると、本国のインド人よりもアメリカ移民一世たちのほうが、カースト制はじめ色々なことについて、総じて、コンサバなのだそうだ。

で、本当だったらヨーロッパ人のように一ヶ月くらい休みを取って、下痢止めを片手にインドを歩きたいところなのだ。ドイツのインド人同僚も、うちの実家はバンガロール(結婚式の会場)からそうは遠くもないし、せっかくだから両親のところにvisitどうぞ、といってくれた。彼はインドの田舎の漁村らしいのだが、前にもすこし少年時代の話を聞いていたものだからもう、いきたくていきたくてしょうがない。飛行機も、意外と安い。のだが、さすがに帰国前にまとめなければならない仕事が山積みで、いくら院生の恥夢(仮)に押し付けて逃げるにしても、無責任にはほどがある。あと彼にしても、実験屋としてはとても優秀だが、時間にも限度があるし、なるべく早く博士は卒業しなきゃならないし、第一経験はまだ積む過程にあるから、あまり無理にお願いしてつぶすわけにもいかない。

まあそんなこんなで、小旅行が、精一杯。ベルリンなら、1時間半でつく。



で、オペラのチケット以外は何の計画もなしに、朝早起きをして、ぶらぶらと駅までいったら、電車が止まっている。事情がわからずに立ち止まって一生懸命駅の構内放送に耳を傾けていたら、いきなり中国人団体軍団に話しかけられた。「切符の返金をもらいたいのだが窓口はどこか?」といきなりでも、なんだか中国語を少しは覚えていた。さすがに博士の研究室で毎日、まわり皆中国語だっただけのことはある。中国語は「一点一点」、「英語」マタハ「日語」は話すんだけど...「独語は話す事あたわず」「我もまた意味不明なり」...なんかそんな感じで適当に字をつなげて会話を試みたら、一応、意味が通じたらしい。メディカルスクールが終わって少し余裕ができたら(?)、また勉強しよう。

よくわからないし、第一ドイツ人たちも皆、駅員すら混乱の様子。仕方なく、ホームで待っていると、1時間近くしてなんだかやっと、それらしい電車が来たのだが、時刻表外で、行き先も予定と違う。ので、ドイツ人の若い女の子にドイツ語もどきで「これベルリンに行くアルネ?」と訊いたら、英語で「hopefully :)」だって。ドイツ語こそ、もうちょっとがんばらなくちゃ。



とにかく、予定より2時間ほど遅れて、11時近くにベルリン到着となった。漠然と、どこかの博物館にでも行こう、と思っていたのだが、15時のマチネまで、それほどには時間もないし、第一天気があまりによい。深く考えずにぶらぶらベルリン中央駅から当てもなく歩いていると、すぐにベルリンの国会議事堂、Reichstagに行き当たった。



正面に行列ができているので、並んでみた。そういえば、議事堂の屋上のガラスドームは見学できる、と以前、人から聞いてはいたのだ。

正面には、dem Deutschen Volke、ドイツの民(へ)と書かれている



この建物、プロシア・ワイマール共和国・第三帝国・東西統一ドイツ、と近現代ドイツ史の舞台となってきた。最近ちょっと、ドイツの歴史についてあれこれ読んでいるので、実に感慨深い。それにしても、ヨーロッパはどうしてこうも、古いものが残って使われているのだろう。Berlinみたいな大都会でも、街の中心はいたるところにちゃんと帝政ドイツ時代あたりの建物が残っていて、外壁に弾痕はあれど、使われている。地震・火事がないから、とはいえ、東京を考えると果たして何が残っているだろうか。で、下町に箱だけはなんとか残っていても、そこに流れる空気は、江戸時代から続いている空気か。ガイジンだからそう感じるだけかもしれないが、ヨーロッパには、なんだか昔の息遣いがそのまま続いているような気がしてならない。

正面玄関の天井にはF III、W I、W IIの文字が。フリードリヒとかウィルヘルムということのようだが、さすがのヒトラーもこれを改装して自分の頭文字に変えたり、鍵十字にしたりするようなことはしなかったとみえる。弾痕は、さすがに埋めてある。あと、柱は多分、石を入れ替えたのだろう、新しい感じだ。



そもそも、国会議事堂の正面に行列を作って観光する、という感覚からして、異国のもの。いかにも斬新だ。日本でもアメリカでも、こんなの、想像だにできない。永田町あたりだったら、恐れ多くて正面から正視すらしてはいけないような雰囲気があるし、ワシントンの議事堂は近づこうとしたら、わんさといる私服警官に射殺されるに違いない。

で、Reichstagの正面玄関から堂々と入場し、簡単な手荷物・身辺検査を受けて中に入ると、真正面の10メートルくらい離れたところが、もう、議場である。さすがに二重の分厚いガラス壁で守られてはいるが、これだったら、最後列の議員の白髪の数だって、数えようと思えば数えられる。残念ながら日曜で、何もやっていなかったが、もちろん議会のやっている平日だって、観光してよい。

Reichstagに入るとすぐ正面には、国会の議場。



エレベーターで屋上まであがると、東西ドイツ統一でベルリン首都移転に伴い、Reichstagを改装した際に新設したという、ガラスドームがある。中を、螺旋のスロープに沿って、登れるようになっている。

このガラスドームは、議場の真上に当たる。DeutschのVolkeたちは、中央の円形のガラス窓から議員を見下ろすことができる。また、螺旋のスロープを登りながらも、中央の漏斗のような鏡から、下の議会の様子が見える。永田町だったら、下々がセンセ方を見下ろす、なんて、ありえない。こんなにオープンな議会をもつ国民が、第三帝国に翻弄されたとは、想像しにくいが、あるいは彼らは、意識的に・理性的に、国民性の自己改革を図ったのだろうか。

螺旋のスロープを登った頂上には、展望広場があり、ベルリン大都市圏を一望できる

3 件のコメント:

devenir さんのコメント...

どひゃあ!すごいガラスドームですねえ!出不精の私ですら、出かけたくなる。

ところで他人事ながら何ですけど、そんな込み入った事情があるのなら、逆に是非インドに行くべきだと思うなあ。1週間程度なら、時間も取れなくないでしょ? 実験は反復可能でも、結婚式は2度ない。自分のためじゃなく、彼と彼女とその家族のために行ってあげるべきじゃなかろうか。実験より世のため人のためになるのでは?(笑)

それと、下の Vitalism にかんして一言するなら、現代人はその真価とか巨大な伝統をすっかり見失っていて、逆にそこを疑似科学やら宗教やらにつけ込まれている。たとえ科学者には必要なくても、哲学者や思想史家がそれに無知では問題外です。

ま、脳科学や生物学にかぎらず、現代の哲学も文学も芸術も、おおむね「工学的」になっているのは事実で、そのアンチテーゼとして生成や創発や進化や変化という概念に訴えざるを得ないという側面もある。

進化論の登場で、太古より生命は進化と変化をつづけてきた、という事実が証明された。それがたんに物理化学的過程にすぎないのであれば、どうしてそんな多様きわまりない創造と創発が生じたのか理解できない。むしろ物理化学的過程を食い破り、それにイレギュラーなリズムを加えるようにして数多の生命は生まれてきた。それは何故か、いかにしてか?

生命とはなにか。いろんな説明の仕方がありうるわけで、科学の説明のみが正しいということにはならない。哲学者は哲学者なりに、文学者は文学者なりに、芸術家は芸術家なりに、ダンサーはダンサーなりに、競走馬は競走馬なりに、自分なりのやりかたで、それを説明しようとしているのではなかろうか。文化とはそんな努力の集積ではないか。

むしろ現代においては、科学の「越権行為」が見過ごせないものになっている。たんなる夜郎自大な権威主義で、自分だけが正しいと言いすぎている、とりわけ日本において。なんだか正気とは思われない。国を挙げてのカルト宗教みたいになってる。そこらが私のカンに障るところです。

gawky さんのコメント...

コメントありがとうございます。自分のメモの意味も含めて書いているのですが、読む方もいることがわかると、うれしいものです。

最近、この国が好きになっている自分に気づくことがよくよくあります。実に居心地がよい。前世はもしかしたらドイツ人だったのかも。まあ、アメリカで誰かが言っていたが、外国暮らしには周期があって、次またドイツに戻ってきて少しすると、うんざりしていやになるのかもしれません。

結婚式... 助言ありがとうございます。いやまさにおっしゃるとおりが正論で、いま、結構本気で悩んでいる最中なのです。今週書いている論文が一通り形になったら、チケットを買っちゃうかもしれません。

>現代人はその真価とか巨大な伝統をすっかり見失っていて、逆にそこを疑似科学やら宗教やらにつけ込まれてい

ここらへんのコメント、実を言うと期待していたのですが、「真価」については、無知&傲慢な科学者としては理解が及ばないところがあります。まあ、科学者としてではなく、ヒトとして、文学のように「きっと読めば面白いのだろう」くらいのことは考えますが。

>それがたんに物理化学的過程にすぎないのであれば、どうしてそんな多様きわまりない創造と創発が生じたのか理解できない。

これは、「眼球の解剖学をするとあまりに複雑で美しい、よって進化論は無効で、これは神によって創造されたに違いない」という論法と相似ですね。

第一非常に単純な物理化学的過程だって、とても美しい込み入ったパターンを生じる。たとえば、 Belousov-Zhabotinsky反応(ページ下の古典的図版を参照)などが有名だ。これは、直接的に物理化学的<過程>を否定する材料にはならない。ただ、化学的な古典的<概念>(というほどのものでもないかもしれないが)、つまり、「試験管の中は全部一様で一緒」を否定する材料にはなる。

まあ確かに科学カルトはそのとおりで、宗教と同様、本質がわかっていないヒトほど浮かれて踊りだすわけですね。そのクレイジーが、キョージュとかだったりするからなおさらたちが悪い。

devenir さんのコメント...

なかなか面白い話題ですが、むずかしいと言えばむずかしい。おたくのコメント欄は長い文章が書きづらい。今回はごくあっさりコメントしておきます。機会を見つけ、自分のところで論じることにします。

生気論の再評価がなぜ必要か。それは身のまわりの自然環境を活きたものとして感じる能力を取り戻さなければ、おそらくさほど遠くない将来に人類は絶滅するだろうから。>ことによると私たちが生きている間に(!)

それと「非常に単純な物理化学的過程だって、とても美しい込み入ったパターンを生じる」のは事実ですが、それはあくまで「パターン」にとどまります。

生命が創発する美はむしろパターンを破るところにある。そこに物質的過程には還元され得ぬ複雑性が生じる。美のみならず、自らを滅ぼすような醜や悪をも生む。

進化の裏側で性懲りもなく興亡をくりかえす。それだけの放恣な自由を生命は持つ。これにたいし物質は必然性に従うのみ。最初に決定づけられた軌道や法則性から出られません。

生命と物質。自由と必然性。この質的なちがいを見分けようとするところに、おそらく全ての文系学問の存在理由があります。