[本・一般] ●●●○○ Evolving God (神の進化)
Evolving God: A Provocative View on the Origins of Religion
[神の進化:宗教の源泉に関する新見地]
by Barbara J. King
本書は霊長類行動学者の見地から、宗教の行動学的源泉を辿ろうとするもので、主なテーゼによると、宗教は霊長類、とりわけ類人猿に特有の社会行動であるbelongingness(帰属意識・社交性)に起因するものである。器質的な説明ははっきりと否定している。
生理学は器質的な解釈が仕事であるが、かといって器質的な解釈の到底及ばない部分があることを、否定するものではない。むしろそのことを抱擁して初めて、器質的解釈の限界を押し広げることができる、と考える。その意味で、やはり霊長類行動学は重要なお隣さんであって、もしも脳神経生理学が~1980年代の分子遺伝学のようにパラダイムとして成功する可能性があるとすれば(別にそのような成功の必然性はないのだが)、メンデルの豆やショウジョウバエの形質ではないが、ヒト・霊長類(あるいは生物一般?)の脳の機能の中でも、その器質的な本質をもっとも直接的に反映している機能を特定することが、重要であると考える。
ある人は、「記憶」がそれだというが、それは若干ピンボケである。もちろんKandelのアメフラシの業績やBlissとLomoの開拓した海馬回路の生理学、伊藤正男らの小脳の生理学がそれぞれ、偉大な生物学の一頁であることを否定するものは誰一人いないと思うが、それが実験医学、つまりヒトの脳生物学において意味を持つものであるか、という点においては、大いに疑義が残る(実をいうとこの中では、相対的には注目度の低い小脳のストーリーが、もっとも本質に近いような気がしてならない)。
中心的な問題は、「記憶」という現象の操作的定義があまりに曖昧で、神経細胞の発火からから人間行動まですべてを緩く包含してしまう点にある。つまり<アメフラシの自動反射の感化「記憶」は、ヒトのdeclarative memory「記憶」と相同である>というstatementは一見面白いのだが、器質的な根拠では<エンドウマメの「遺伝」とヒトの「遺伝」は相同である>というstatementの遥か足元にも及ばない。どうしても言語を解して思考するため、「記憶」とくくられてしまうと、強力な連想が働いてしまうのではあるが。
現時点で賭けろと迫られたら、躊躇いなく「状態予測」が鍵となる、と答えよう。つまり、外界から内部に至るさまざまな感覚刺激のパターンや自らの行動のパターンから、それに続くパターンを予測すること、これこそが中枢神経網のもっとも量子的な機能である、と考えたい。こういう操作的定義を行えば馬鹿な猿にも、そして、もし幸運であったら無脊椎動物にまで、生理学的な事象の類縁性を広げる一縷の望みがあるきがしてならない。
ただし、難しいことに、「パターン予測」の生理学的なmanifestationが「人間の知覚にとっての(容易に検出しうる)時空パターン」である必然性は、ない(これも言語の落とし穴であろう)。だからAbelesの提唱するsynfire chainやその周辺のストーリーはとても興味深いが、「状態予測」のアナログをこういう現象の周囲に求める必然性も、特にはない。特に、脳切片生理学の限界を無視しても、脳における「パターン予測」のrobustさを考えると、統計的な傾向としか検出できないものが「パターン予測」と対応しうるか、というのは難しい点かもしれない。もっとサンプルをとればOK、と考えるのかもしれないが。
Anyway、脱線してしまったが、本書では「宗教」という言葉の操作的定義を非常に広く設定しているが、その限りにおいては、宗教性が人間の必然であるという論も、納得がいく。人間には自分を超えて、よりも大きな「社会」に帰属する強い本能があるらしい。その点で「キリスト教などは、人の国際的な流動性が高まった紀元前後の時代に、ちょうどこうした帰属意識を維持する上で好都合であった」、という論が特に印象深い。さらには、現代人がオタクismや西洋科学原理主義、アメリカ原理主義、資本原理主義、キリスト教・イスラム教原理主義などにすがるのも、こうすると分かりやすい。
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