2008/01/15

[新聞] Change

Despite Bush Flip-Flops, Kerry Gets Label
By John F. Harris
Washington Post, September 23, 2004

Obama氏の引き金で、今回の大統領予備選のテーマは、間違いなく、「変化」である。アメリカの愚衆すら、現況が傾国モノのヤバさであることを感じ取り始めているという、この時勢に合った言葉なのであろう。だが不思議なもので、前回のBush II vs. Kerryでは、「変化」がいけないことのように取りざたされた。驚くべきことに、この激変については、誰も覚えていないようだ。



そのときKerryにむけられた最大の非難が「flip-flop」つまり「あっちにいったりこっちにいったり」変わり身が激しい、というものであった。それは、Kerryが最初に全国舞台に上がったヴェトナム反戦運動時に、端を発する。軍役を果たして帰還後、若き日のKerryは事態を見かねて反戦運動に転じ、1971年には議会で有名な演説をおこなった「いつまでも平然とした顔で<間違いのために死ね>と若者を送り出す気ですか?(How do you ask a man to be the last man to die for a mistake?)」

戦争に行ってから、戦争を批判した、それが「flip-flop」だというのだ。イラク戦争についても、最初はBush信任投票に賛成したが、その後、反戦派に転じた、となじられた。それでなくとも合意を重んじる上院の仕組みから、Kerryが賛成票を投じた議案の仔細を穿り返すと、一見矛盾した投票行動の図を描くことは、いとも簡単であった。一方ブッシュは、パパブッシュの口利きでヴェトナムではなくテキサス州において、メキシコ国境防衛の軍役に徴兵され、それもサボっていたのだ。ブッシュは、一貫して、ぐうたら息子だったから、いいらしい。

ちなみにビーチサンダルのことも、ペタペタとした平たい感覚からか「flip-flop」と呼ぶ。前回の選挙では、共和党によって、愚衆を煽動するプロップとして、有効に活用された。





で、今回の予備選挙のキーワードは、間違いなく「変化」である。オバマ氏が新しい国政をうたって最初のアイオワ州で意外な勝利を収めてからというもの、民主党・共和党問わず、どの候補者も「change」という言葉を呪文のように吐いている。

前回問題になった最大の「変化」がKerryのイラク反戦であったとすると、そして今回、誰も前面に出してこそはいないがイラク政策の「変化」が底流としては根強いとすると、まったく同じissueが4年間で善悪逆転したらしい。また前回も今回同様、「こいつ(=Bush)はヤバイ、一刻も早く首を挿げ替えなければ」という「変化」への切望があったのだが、前回は、愚衆にはこれが分からなかったのだ。まあKerryは政治家としては話もさえないし、オーラがなかったことも事実だが。

だがこの事態は、言葉・概念だけが根拠なくうわべで踊りまわる、という現代アメリカの最も悪しき側面を浮き彫りにしている。政治にしても、経済にしても(ヘッジファンド、サブプライム・ローン)、科学にしても、文化にしても、1960年代あたりにヨーロッパ文化の有機的な基盤を捨てた「アメリカ」の空回りが、もはや誰にもとめられない目まぐるしい速度に達している 1 。戦争だけではない、医療保険問題や中産階級の弱体化の問題、経済の空洞化の問題、世界におけるアメリカの立場なども、すべて、極地に達している。



こうは言っても、一アメリカ国民としては、Obama氏を信じたい。彼はインドネシア育ちで世界経験も豊富、そしてChicagoの下町で政治家としての下積み生活を送った。その「草の根」の重心が、国政の場でも、十分な安定感をもたらしうるのか。Clinton女史は、そのコネクションが最大の武器だというが、neoconらの作った現事態はあまりに酷いので、たとえObama氏が当選しても、真ん中から左側の正気を保っている政策プロたちは、どっと押し寄せて国の再建にかかろうとするであろう。

しかもある意味でアメリカ政府を支えているのは政治家や大統領選ごとに変わるトップ官僚ではなく、中堅官僚たちである。これは、ワシントン在住が長く、政府系の研究機関に出入りしていたりすると、肌で感じられることだ。Bushのあまりの醜態と政治的な官僚人事に、辞職者の多かった中堅官僚であるが、果たしてその基盤を取り戻すであろうか。

その意味で今年、共和党が勝とうものなら、救いようのないアメリカはまた一歩、蟻地獄に踏み入れたことになろう。


1. こう考えてみると、元来のアメリカ文化は、ある意味では、日本文化と共通の構造をなしていると捉えることができる。つまり、<よそからの文化導入がその根幹をなす>という面で、どちらも「借りもの文化」なのだ。蕩尽氏はこれを、「裏声文化」と形容している。ただ、アメリカのヨーロッパ的ルーツが簡単に消え去ったのに比べ、日本の借りもの文化は2000年以上続いており、もうちょっと根が深い。

1 件のコメント:

devenir さんのコメント...

裏声文化の件ですが。

アメリカ文化や日本文化ばかりじゃなく、私としては「すべての文化は借り物である」と考えているんです。たとえばヨーロッパ文化はギリシャ・ローマ文明からの借り物として出発した。すべての文化は借り物であり、どれも後ろ暗いところがある、と言ってもいい。

そこらのことは、いずれ自分のところで少し書きます。てか、ここのブログのコメント投稿欄は小さくて、やたら書きにくいんですが、こんなものなんでしょうか。