2007/12/17

[ドイツより] Weinachtsfier

研究所のクリスマスパーティー。研究者・技官・学生、総出。

所長の舎医費(仮)の長いスピーチ(一年の総括)に続き、勤続者の表彰、そして食事。最後は町の青年合唱団が来て、ア・カペラのクリスマスコンサート。いつもの大セミナー室は、ぎゅう詰めの大賑わい。セミナーでこんなに大盛況だったことは、記憶にない...






ところで、なぜだかまた例によって所長の舎医費の近くに座ることになって、今日は本の話になった。本はすべて電子化するのだろうか、という話。

ところで最近、大きい蔵書は全て研究室のコピー機を使ってスキャンしてしまうことにした。そのコピー機は優れもので、スキャンすると高画質のPDFが研究室のサーバに送られる。で、スキャンした本は売り払ってしまおうか、と。どう考えても、蔵書が多すぎるのだ。引っ越しも一苦労二苦労。これから、五大陸(?)のどこに行き着くかもしれぬ、流浪学者にとっては、とんでもないオニモツである。ワシントンの下宿も引き払わずにあるのは、そこにはまたひとしきり、大量の本が積んであるからである。引っ越しだけで、二週間は優にかかるだろう。高い本を買って、それを維持するためにまた高い家賃を払う。もしもユーロ安だったら、今年は破産するところだった。

「紙にするのももったいないような本が増えてきた」と僕はいう。第一、SpringerとかElsevierとか、ボッタクリもいいところだ。著筆者にはろくすっぽ稿料も払わないような総説集で白黒刷りの菊判程度でも、軽く一万円を超えたりする。

だけど舎医費は、本は残るのではないか、という。学生の頃よんだShakespeareとか、下線や欄外の注記、紙の臭い、手触り、これらがmultimodalに脳裏に焼き付くのだ、と。「僕は共感しますけれどもね、もうちょっと下の世代はどうでしょう。」「仮にそうなったとして、画像だけ見て、言語をきちんと介して考える習慣がなくなったら、人類はオシマイでしょ。」確かにそれはおっしゃる通り。でも「画像・漫画大国の日本では、いまや、漫画の学習参考書すらあるんですよ。」舎医費は、複雑な表情。



確かに、Homo televisensisは、sapientではない。画像を見て情報を得ることは、少ない労力で事態を飲み込んだ気にはなるが、それは人間の認知による錯覚だと解釈することができる。本当は、言葉という、つかみにくいものを捕まえようとして想像を巡らせるところに、叡智は磨かれてゆくのだ。直接的な報酬は得られにくい、しかもひどく疲れるような「思考」を鍛え、それが苦ではなく楽しみとなるようにこつこつと刷り込みを続けた先に、sapienceは待っている。と信じたい。

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