2007/12/31

[新聞] Echo Chamber

Interview with Carlo Bonini
by Bill Moyers, May 4, 2007

イラク開戦は、ブッシュ政権就任時からのネオコンの念願であった。9・11のはるか前の話である。ネオコン達は世の出来事を調子よく開戦の口実に仕立てたにすぎない。これは、周知の事実となっている 1

その開戦の口実の要となったのが、「フセイン政権の手下がニジェールで、核爆弾の原材料を買い求めた」という、諜報界のガセネタ。ブッシュも開戦前の一般教書演説で、これに触れている。このガセネタは、どうして生まれたのか。イタリア情報局の手下の情報業者が、ローマのニジェール大使館員でイタリア情報局の諜報員でもある女性と組んで、ニジェール大使館の便箋などを用い、証拠を偽造したのだという。そのことをこのBonini記者は、掘り当てたらしい。

Bonini記者は、この偽造にイタリア政府がかかわっているのではないか、と疑う。少なくとも、親米姿勢をとる当時就任直後のBerlusconi政権にとって、ブッシュ政権が欲するこうした情報の提供は、実に都合よかったのだという。だが、ちょっとしたプレゼントくらいのつもりで渡した低級な諜報情報が、開戦の口火になるとは、誰も想像だにしていなかったのではないか、と。



このガセネタが広がるにあたっては、CIAが英国の情報局に確認したところ、英国の情報局はイタリアから受けた同じガセネタに照らして「当方でも確認が取れている」といったらしい。実を言うとニジェールの旧宗主国であるフランスの情報局は、その情報がガセネタであることをすぐに突き止めたらしいのだが、ブッシュ政権から見れば、フランスは半敵国なのだろう、よって無視。

こういうのを、echo chamberという。自分の発した声がこだまして、自分の耳に帰ってくる。都合のいいことしか聞こえない。その聞こえてきた都合のいいことが、実を言うと自分の口から発したことであることは、気づかないのか、あるいは少なくとも、気づいたそぶりはない。そして恐ろしいことにこれは、国際諜報のことに限らない。アメリカナイズされた現代の、普遍的な問題である。

学問・思索についても、同様であろう。たとえば、現代生物学。「情報生物学(...ome)」にしても、「複雑系の生物学」にしても、どれも似たりよったりの気がしてならない。いったんみんなが叫びだすと、その根底にある実験事実の有無や限界は完全に無視されて、話の尾ひれだけ際限なく伸びてゆく。新たな実験報告も、このストーリーにうまく合致するものだと、相当危なっかしいものでもやすやすと受け入れられてしまう。上っ面のストーリーだけがこだまして、でも、それが単なるechoであることは、都合よく無視される。

実例を挙げよう、最近はやりのconnectome。これは電子顕微鏡などの写真を用いて、脳内の細胞のシナプスを全てサンプルして、それによって脳の大局的な仕組みを知ろう、というものだ。素人受けはよいが、実践的にはいろいろな問題をはらんでいる。

▲▲ひとつには、シナプスを知る上での技術的な問題。▲細胞が近接しているからといって、それらがシナプスをなしているとは限らない。電子顕微鏡像とシナプスの機能関係の解明はだいぶ進んではいるが、脳全体を無作為に切って頭ごなしにその原則を適用できるほどではない。というのも、脳のシナプスは多様で、その中の一部、研究しやすいタイプのみが、省察の対照となってきたからだ。▲また、シナプスをなしているからといって、そのシナプスが機能しているとは限らない。待機中のsilent synapseかもしれないし、そこまで行かなくても、抑制性・興奮性というもっとも基本的な大分類だって、仮に間違えたとしたら、全くちんぷんかんぷんになる。現実にはシナプスの数ほど機能的な多様性があり、それも静的なものではないから、ことはさらに複雑だ。▲また、電子顕微鏡用に標本を準備する固定操作によって細胞は膨張し、本当は10~30%をしめる細胞外空間が、ほとんどないように見えてしまう。町内会をみんな公民館の会議室に押し込んだかのように「みんな仲良し」にみえてしまうのだが、ご近所づきあいと一緒で、本当はもっと複雑なはずだ。▲第一、猿の脳ですら大きすぎて、脳をそのまま電顕の切片として扱うようなことは、まず当面、無理である。そう、他人の分の研究費を全部ぶんどって研究したって、まあ当面、無理である。だから結局、ずたずたに裁断したものを、無理矢理つなげて考えることになる。

▲▲しかも、全てのテクニックが理想的に執り行われたとしても、依然、誤差の問題がある。どんな計測でも一定の誤差をともなうが、emergentなシステムでは、たとえ誤差が小さくても総体的には大きな違いとなって現れる---この本質的な問題は、すべての...omeに対して適応できるもので、connectomeに限っても、電顕だけの手技的な問題ではない。特に脳の集合活動については、一番小さい(≒観察しにくい)局在性の抑制ニューロンが支配的な役割を果たしているというzeitgeistがあるが、そうだとするとなおさら、この誤差の問題はより重大になってくる。

▲▲第一、脳というのは刻々とめまぐるしく変化していることになっている。だから「スルメを見て烏賊が分かるか」というのは卑怯な論法だが、とくにこうしたダイナミックなシステムについては、まさに的を射ている。▲脳の一番面白いところは、この動態であり、たとえば、ある絵画を見ても、次の日には、同じところにたったって、決して同じ体験をすることはない。現代の工学的な脳科学では、今日・明日・明後日と、その体験に対する反応の共通部分にのみ視点を当てているが、これだから、一次感覚野をはずれると、おもしろいストーリーが乏しくなってしまう。でも一番面白いのは、「普遍という枠組みを脳に無理矢理強要する」ところにあるのではなく、「めまぐるしく変化する脳の中で、いかにして一縷の脈絡が紡がれるか」、ここにある。「普遍原理が脳の本質」なのではなく、「激動という本質から苦労して一定の普遍性を持つ原理を見いだすことが脳科学の本質」なのだ。そこら辺を勘違いしてはならない。




だいぶ脱線してしまったが、まあこうしたアメリカナイゼーション(≒理屈と現実の遊離)は、啓蒙時代からはじまる人間の進化が、ある限界まで到達したということかもしれない。理性が自然の混沌を支配下におさめてきた近現代の成れの果てとして、現代人は理性の脆弱性を見失っている。理性に心地のよい単純なストーリーは、その実、単なるストーリーだ、ということを見失っている。

言い方は違うが、似た話が、購読している蕩尽氏のブログでも現在、展開されている。そこで蕩尽氏は、日本的な汎神的精神が、この行き詰まりの打開につながるのではないか、というようなことを書いているのだと思う。で、かねてから僕も、日本に伝統的な実験に忠実な科学の姿勢が、現代西洋科学の頭でっかちの打開につながるのではないか、と思うのだ。

蕩尽氏にいわせればこれは「モノ信仰」ともいえるのかもしれない。だが、実験に忠実である、というのは、物質主義的な短視眼のようでいて、その実、こと生物学においては、事象の複雑性を全面的に認知する姿勢なのだ。逆にいうと、生物事象の複雑性という神殿の前で一旦平伏せずには、本当は、実験という純化は始まりもしない。

ひとつ注意を要することに、前世紀の半ばあたりの生物学は、ラッキーすぎた。大腸菌・細菌ウイルスなどといった実に好都合な実験系によって、実験に忠実であることと単純に割り切ったストーリーを展開することが、ほとんど矛盾をきたさない時代が長く続いた。酵母、節足動物、哺乳類。生物の梯子を上っていくと矛盾をきたす部分も増えてくるが、それらについてもすべて、単純なストーリを豊潤にする糧にできる、と考えられた。



だが、その時代は終焉した。「脳の世紀」とかいうが、脳は生物現象の中でも究極的に複雑・emergentなもので、それを捕らえるためには、いったん生物学のルーツである「多様性の直視」という視点に立ち返り、そこからの再出発が必要であると思う。物理学よりは博物学が、工学よりは比較解剖学が、これからの生物学の再出発の起点となるべき気がしてならない。その意味で僕は古典生物学の姿勢がまだ守られているメディカルスクールに進み、そして「実験屋」を志すことに何のはばかりもないのだ。
(2007.12.30記)






1. それなのに弾劾されないのは、なぜだろう。アメリカの戦争はいつもそういう風に始められてきた、という話もあるが、「建前の上に建国された国であるアメリカ」がその大義名分の崩壊に抗わないのは、末世的である。アメリカがその建前を失ったら、もはや何の実体もなくなる、ということが、分かっていないのか。

1 件のコメント:

devenir さんのコメント...

あけましておめでとうございます。

本はモノか、情報かについて、
自分のところにちょっとした考察を
したためておきました。