[脳科学の話題] 2. 側頭葉に背後霊?
今日のお話は、脳のある部位を電気的に刺激したら、刺激をしているときだけ背後に人気を感じるような部位があった、というものである。
てんかんでは、脳細胞が異常に激しく発火してしまう。異常発火する脳の部位や異常発火のリズムの違いにより外的な症状も違い、ひきつけを起こすものや失神するものもあれば、てんかんの発作中でもほとんど分からないものすらある。
この機序について良くは分かっていないが、ごく単純化すると、マイクの音量を大きくしすぎたときに起こるハウリングのようなものだと考えられる。この説では、脳の複雑な神経回路の中に何らかの原因でショートのようなものができてしまい、その異常回路が回帰的に自己誘発しつづけて異常発火につながる、と考える。
てんかん薬の著しい発達で、現在では薬によって抑えられる症例も多いが、それでも相当数は既存の薬では治らない。薬での治療がだめな場合の最終手段は依然として、脳の病巣部の部分切除である。
さて、脳を切るときは、なるべくてんかんの病巣(先ほど述べたショート回路の中枢部と考えられる)部分のみに限って切除することが、当然重要である。その位置を特定するために、切除手術の前に頭蓋骨下に埋め込み型電極を挿入することがある。電極を埋め込んでおいてずっと記録し続け、てんかんの発作が起きるまで待ち、位置を記録に残すのである(脳の外から行う通常の脳派測定では、頭蓋骨や頭皮によって異常発火からの電流が拡散してしまい、正確には位置を決定できない)。
てんかん病巣の位置を記録すると同時に、電極から微少な電流を流し、その脳の部位が言語・感覚・運動などといった重要機能に関与しているかも試す(たとえばある部位を刺激したときにどもりが誘発されたら、その部分は言語機能に重要であると考え、その部位はなるべく保全するように慎重に切除を行うことになる)。
前置きが長くなってしまったが、今日のお話は、この埋め込み電極でてんかん患者の脳のいろいろな部位を刺激していたら、ある箇所を刺激した時にだけ、患者が急に背後に人の気配を感じた、というものである。有名雑誌Natureに去年掲載された。
患者にいろいろな姿勢を取ってもらいながらこの刺激を繰り返したところ、この「背後霊」は必ず患者と同じ姿勢をとり、すぐ背後に感じられた。このことから、研究者達は、刺激で体性感覚の統合が失われ自分の体からきている感覚が自分のものだと判別できなくなり、いわば感覚が体外離脱してしまったようなものだと解釈している。
このてんかん患者は精神疾患の病歴はないが、研究者達は、この刺激による感覚が統合失調症(schizophrenia、以前精神分裂病と訳されていた病気)におけるそれと共通するものではないか、と考察している。
実に面白い話であるが、同時に脳科学のもっとも難しい部分を浮き彫りにしている。
たとえば、「背後に人気を感じた」などというのは客観的に測定できるものではなく、患者の言葉による自己申告に頼らざるを得ない。だから、たとえば猿でこういったことを研究しようとしてもだいぶ無理がある(刺激をしたら猿が背後を振り向いた、といったって、様々な解釈が可能である)し、「刺激の強さに比例して気配は遠ざかった」などという類の物質科学の流儀に則った相関関係などはたとえあったとしても記述しにくい。
人を対象とした研究なので、被験者数もまた限られるし、行える実験も限られる。この研究も一人の患者での結果報告であり、これが万人に適応できるかは不明だ。そもそも、電極で刺激しなくても背後霊みたいなものを感じる(と自称する)人すら、いそうだ(?)。さらに、こういった電極を用いた研究は、医療目的で電極を埋め込んだてんかん患者などに限られる。てんかん患者はただですら憑かれた感覚をもつことがあるし、そういったこととも関係した現象かもしれない。こういった事情から、この現象の一般性については判定がきわめて難しい。
また、脳が構造体として複雑なものであるため、電極で刺激しても実際に脳で何が起きているかははっきりしないという問題もある。この研究で使用された電極はおそらく直径数mmの脳表電極であるが、そうだとすると、電気刺激は何万という脳細胞に影響をあたえていることになる。電極と細胞の細かい位置関係により、細胞一つ一つが全く異なる局所電場にさらされる。また、脳の細胞は通常はまちまちのタイミングで発火し、このタイミングなども情報を含んでいると考えられているが、電極から加えた電気刺激は、何万という脳細胞に一斉に加わり、その点でも決して普通の状況ではない。
普段生活していて何の疑問も持たないような実存感覚などであるが、意外と単純なことだったりするのかもしれない。さながら、遺伝学が進歩するまで、親子が似る原理が神秘のヴェールに完全に隠されていたように。今では小学生ですらDNAだなんだと、分かった気になれる時代だ。この先何が明かされるとも分からない... ずいぶん乱暴なまとめになってしまったが。
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3 件のコメント:
うふふふ。蕩尽亭です。元旦にヒマにまかせリンクを辿ってたら、ついに見つけてしまいましたよ、gawky さん。おもしろい話題で、興味津々で読みました。
「研究者達は、刺激で体性感覚の統合が失われ自分の体からきている感覚が自分のものだと判別できなくなり、いわば感覚が体外離脱してしまったようなものだと解釈している。」
「体性感覚の統合」が失われると、自分の体の感覚が自分に属するものだという意識が失われる。いわば自己を固有のものとする意識が揺らぐ。そのとき、いろいろヘンなものが見えて来てしまう。精神の病理現象はそのほとんどがここから生まれる。
おそらく身体を統合する働きが感覚をも支配していて、それにより自他が区別され、自己に固有の意識が可能になっている。ならば、そこで心身を統合するものとは一体なにか。
心身の統合が差し障りなく行なわれているあいだ、私たちはそれをあまり深く意識しない。それは単純きわまりないものである。が、ひとたび何か支障が生じるや、統合は、途方もなく複雑で困難な奇跡的な均衡のように見えてくる。
「普段生活していて何の疑問も持たないような実存感覚などであるが、意外と単純なことだったりするのかもしれない。」
ある見地からすれば単純きわまりものが、別の見地からすれば、途方もなく複雑きわまりないものになる。そんな曖昧模糊たるものが「実存」というものでしょう。
デカルトの言う「コギト=思考する我」がふだん意識されるのはめったにない。私たちは習慣に従い、毎日の仕事のルーティンに身を委せ、日々の生活を送っている。私たちは子供の頃は親をまね、成長するにつれ先生や先輩の姿をまねる。川人光男の小脳による運動学習モデルがそこではこれ以上なく通用する。
だが、そんな日常のループに何らかのきっかけで亀裂が入ることがある。先人のマネと学習だけでは乗り越えられない障壁に突き当たることがある。古いものの模倣ではなく、新しいものの創発が要求される。そのとき初めて思考は自らを振り返り、自らを反省する。そのときコギトは問われるべき対象となり、ついにアポリアと化す。
しかし人類はそれを乗り越えてきた。私たちにしても、日々様々な難関と相克を乗り越えている。そんな創発と乗り越えの瞬間にこそ、意識の最も深い秘密が啓示されるはずである。まさにそんな創発と創造の仕組みこそが問われねばならない。そこにこそ機械と人間の、物質的なものと精神的なものとの歴然とした違いがある。
心身の統合体をコギトとか、人格とか呼ぶのであれば、それらの統合を可能にするもの、いいかえれば「意識」はどこにあるのか。このことをデカルト以来、多くの哲学者が問うてきました。
意識が脳のなかにあるとすれば、それは局所的なものなのか。局所的なものだとしたら、それはどの部位にあるのか。
脳のどこかにある意識の座の物質的な過程とその作用により、放っておいても脳はセルフコントロールされて行くのか。あらかじめ物質的過程によりコントロールされているものが、なんらかの錯覚から意識などと呼ばれているにすぎないのか。
そもそも脳の内に意識の座があるというのは本当か。そうではなく、意識の内に脳があるのではないか? 脳は意識の海に浮かんでいるにすぎないのではないか? 世界とは無数の感情と感覚と刺激と思考に満たされた巨大な意識の海であり、そのごく限定された飛び地に、たまさか脳という形象が思い描かれているにすぎないのではないか。
むろんのこと、べつだん脳科学者にそんな深刻な問いへの回答を要求しているわけではありません。また、これは哲学者なら答えが出せるという問題でもありません。ただ、このように哲学は誰にも答えようのない問いを問いつづけ、あらゆるタブーを乗り越えて考えつづける。それは、あたかも背後霊のように科学に取り憑き、責め立て、決して離れようとしないのです。
とまれ「脳についての物質科学的な世界観を変えうる」お仕事を期待します。短期的には「細胞生物学による再生医学の発達に伴い、再生脳神経組織の機能的・生理学的解析が穴場であろう」という将来予想はよさげに思えますが、問題は再生医学がこちらの見込みどおり順調に発達するか否かでしょうね。
見つかってしまいました。お恥ずかしい限りです。
実をいうと、一年ほど前に友人の名前を検索していて蕩尽亭さんのブログにたどり着いたのですが、その友人(生涯の悪友)の医学系連載記事について書かれたことはもちろんのこと(ただし、あの項では悪友に対して比較的寛大でいらしたが、あいつはそんなたいした奴じゃない)、アメリカに関すること、サイエンスなど、僕自身の守備範囲内にある分野については真実のある側面を上手く斬っていらっしゃると思われることが多く、ほかの分野についてお書きになっていることも、より深く味わうことができれば、と残念に思われます。
さて、御commentについてですが、僕自身はまだ、生物学者としてコメントできる立場に達していないと思われますが、以前紹介した本などは、生物学の流儀にかなった形でご質問の案件に挑戦したものだと思われます。脳科学の一般向け啓蒙書はいまいちなものが多くて即積読になってしまうのですが、これは結構いいと思います。もしも再読してやはり良かったら、暇をみて訳したいと思うほどです。講談社の現代新書あたりにいいと思います。
いずれにせよ、今後ともよろしくお願いいたします。
ふむふむ。題名からして面白そうな本ですね。ぜひ読んでみます。
というのも、ちょっと事情がありまして、脳学関係のリサーチをしようと思っているのですが、なかなかいい本がない。いま日本の書店に行けば「脳がど〜たら」と銘打ったゾッキ本が百花繚乱のごとく溢れているのですが、なにやら上野アメ横の年末大売り出しみたいで、知識を安く売り叩こうというさもしいものばかり。げんなりさせられる。
おもしろい本とか、よさげな記事があれば、また紹介してください。楽しみにしています。(蕩尽亭)
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