[実験屋日記] マイスドルフ研修旅行(1): 東ドイツの科学者
月・火・水とみんなでバスに乗って、研究所の研修旅行(retreat)にでかけた。ハルツ山脈の中の、古いが豪勢なリゾートを借り切って、朝から晩まで缶詰で、ほかの研究室の話を聞くという趣旨だ。
研究所で同じフロアに小さな研究室を構えている初老の上ッ蔓先生(仮)。この研究所はもともと、東西統合直前に学術振興と東西交流の目的で、もとからあった小さな研究所に大金をつぎ込んで大幅拡充されたものなのだが、所長以下、科学者はほとんどが西ドイツからの流入者。しかし、上ッ蔓先生は旧東独からこの地で脳科学をしている。
遠足の夜、ホテルのバーで飲んでいて、ちょうど隣り合わせたので、東ドイツでの科学について訊いてみた。「西の学会とかは、いけたんですか?」すると、彼は党との関係が必ずしも良好ではなかったので、東側諸国の学会にしか、いかせてもらえなかったという。ポーランドとか、ロシアとか、ハンガリーとか。実をいうと、これらの国はとても堅実な脳科学の伝統がある。犬のよだれのパヴロヴとか。「でも、党にいい顔をしていた科学者はね、西の学会でも行っていたよ。」
「西側の学術誌は?」大抵の基礎的な雑誌はあったという。あと、抄録集 1は送られてきたから、実物がない雑誌については、論文の著者に手紙で別冊をお願いしたという。ただし、イスラエルとか、南アフリカとか、AllendeからPinochetに変わったあとのチリとかは、外交関係上、禁止だったそうだ。特に目と鼻の先にある西ベルリンとコンタクトを取ることは、no-noだったという。
旧東ドイツに暮らしていると、そういう時代、そういう生き方を、肌で感じるときが、時々ある。そして、現代と比べてしまう(たとえば、米国のインターネット通信会社の主要ハブには全てCIAの秘密の部屋があって、なぜか配線が全てその部屋を通っている、というのは、陰謀論でもなんでもなくて、ただのニュースである)。
1. こんなの僕の世代は、ほとんど知らないだろう。雑誌の抄録ばかり抜き刷りにしてあるやつ。僕は図書館の奥をほじくり返すのが趣味なので、いわれて何のことだかすぐに分かった。
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