2008/07/20

[旅日記] 小旅行2008 ベルリン(c-4) 歴史を背負う

今週はHamburgの学会に行ってきました。先月のベルリンの壁については、いろいろ感想を書きたかったのですが、次が支えているので無理矢理終わらせます。


壁は、ナチスの特高本部跡地をも横切っていた。発掘後、SSの資料館ができるという。





有名な国境検問所の一つ、Checkpoint Charlie。検問所跡のすぐ隣のビルにたつ資料館も含め、ここだけ観光客でひしめいていた。ヨーロッパかぶれなのだろう、デカイ声で月並みな感想を叫んでいるアメリカ人同胞たちに、妙な嫌悪感を感じる。





ベルリン首都移転後の霞ヶ関のようなエリアは、ちょうどSpree河をまたぐ国境帯であった。新政府ビルの一階ロビーに、壁を正確な位置に再現した展示があり、壁による犠牲者の数がペンキで塗ってあった。





壁は墓地にも平然とふみ込んでいる。プロイセン時代からナチス時代にわたって公式墓地として使われていたらしいが、60年代には壁と関連施設(監視塔、兵舎など)敷設のため、墓地の1/3以上がつぶされたという。墓地の片隅に建つ、軍医・医学生記念碑。Scientiae Humanitati Patriae、科学 人類 祖国(?)だそうだ。



壁は人々の生活などお構いなしに、たてられた。ベルリン市の地下鉄路線も壁により分断された。この北駅(Nordbahnhof)は、主に西側を走る路線がちょっとだけ東ベルリンを通過する部分にあたり、東ドイツ当局により封鎖されていたという。だから、西ベルリンの通勤者は毎朝、東ドイツのホーム警備兵を車窓から眺めながら、この無人駅を通過していたらしい。



今回の散歩の終着点、北のBösebrücke。東西ドイツ国境で最初に崩れたのが、この検問所であり、当時の資料映像などにも喜び狂うベルリン市民の背景としてよく登場する。国境が開放されたきっかけは、政府の高官が記者会見で間違った紙を読み、それを聞いた東ドイツ市民が国境開放と解釈して検問所に殺到し、警備兵が対応しきれなくなったのだ。歴史の転機が一端醸成すると、ちょっとしたきっかけで激変する。







ベルリンの壁、参考サイト

ベルリン市の壁情報... 調べた限りでは、最も充実している。
Wikipedia(日本語)... 上記では、歴史的な流れはつかみにくいが、日本語よりもドイツ語英語のWikiのほうが、数段できがよいようだ。
日本人による、壁崩壊直前の個人写真ギャラリー... 古い壁の写真がこうまとまってたくさん観られるサイトはほかに見当たらない。歩いてからこのサイトの写真を見直すと、どこの写真だかが大体わかり、実感が強まる。

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