2007/09/27

[映画] ●●●●● The Bourne Ultimatum

やっとドイツで公開になったBourne最新作。1作目、2作目とも、Bourneが恰好よくて、少年に戻った気分だった。本当はベルリンまで出て、英語で看ようと思っていたのだが、何かの拍子に友人と近所の映画館に出向くことになった。幸い、粗筋はネットで知っていたので、まあ問題なく観劇 1

前作を引用するシーンがいくつもさりげなく、しかし効果的にちりばめられていて、3部作が一体となってうまく完結していた。また臨場感あふれるカメラ使いといい、回り舞台のようにめまぐるしく世界の都市を自在に駆けまわるしなやかさといい、画面に映るか映らないかといった細部への気遣いといい、きれいな映画だという気がした。でもそれだけではない。



中高のころ、やたら007が好きな同級生がいて、その嗜好が僕には理解不能だった。スパイ映画とかヒーローものにいくと、男性は皆、自分が主人公になったつもりになる、という。でも、僕にはBondになりきることができなかったのだ。最新作のBondならまだ良いのだが、以前はとくに、不真面目に斜に構えていて、どうにも共感できなかったのだ。ただ単に僕自身が世の中を馬鹿にしたような生意気だから、同じようなボンドが気に食わないのか、それとも、僕自身が斜に構えていても根はまじめだから、芯まで不真面目なボンドがにくいのか、そこら辺は良くはわからない。

Bourne役のMatt Damon氏によると、ボンドは帝国主義者で女性蔑視主義者。人を殺しておいてわっはっはとカクテルを飲んでジョークのネタにするような人だが、一方のBourneは自分の殺めた相手が頭から離れないし、相手役の女性を自分の世界に巻き込む罪悪感も振り払えない。だからBourneは現代のスパイ、Bondは時代遅れだという 2。でも、さらに、奥が深いような気がしてならないのだ。



Bourneが顔色一つ変えずに、本能的にスパイの仕事をやりのけていくのは確かにかっこいい。だが、もっと本質的なレベルで、彼の存在の芯は、「私は本当は誰?どうすればいいの?」という疑義なのだ。Bourneは、過去の記憶のうせた殺人ロボット。幸せを築こうとするたびに、この呪縛にしっぺ返しを食らう。私はどこに行く?どこに行くべきか?世界をさまよいながら、Bourneはこの問いを生きている。そして終に、自分の源点を求めるが、そこにも答えがあるようで、実を言うと、ない。

Quo vadis? Bourneだけではない。現代人は一般に、この問いを向ける対象すら、失っているのだ。自分の理性の限り、悩むしかない。古典的に設定されてきた、「家のため」、「神のため」、「家族のため」、「国のため」、という擬人化された仮構が揺らぐとともに、益々わけがわからなくなる。「家」とか「家族」とかは影を薄め、「神」は理性主義と人間の欠点に傾き、「国」による悪は暴かれて、文化的な礎も曖昧になってくる。そんな、座標系を失った現代人は、特に自分を問う必要に迫られるわけだ。たとえば、日系アメリカ人ともアメリカ系日本人ともつかないような、原点から矛盾を抱えている僕にとっては、誰を殺さなくとも、Bourneになりきることはたやすいのだ。



ある意味で現代人はみな、現代社会が超人たるべくして作り上げた、ミニBourneだったりするのではないか。そして、本当はただの人間である自分との矛盾と葛藤に、おぼれそうになるのではないか。あるいはおぼれてしまうのではないか。ある意味まじめな奴ほど、本当におぼれてしまったりするのではないか。しかしそれは本質的には、解消できる問題では、ないのではないか。ミニBourneとしてプログラムされたときから運命付けられている、悲しい性なのではないか。

Bourneは1作目のはじめ、地中海に浮かぶ、おぼれかけの半溺死体として登場する。2作目では、愛する女性とともに、インドの奥地で大河の藻屑となりかける。そして3作目の終わりではまた、ハドソン川の闇へと飛び込む。現代人は、あるいは人間一般は、本質的には、この溺死と復活の長久なる輪廻に、未来永劫縛られているのかもしれない。この輪廻の海に飛び込んでも、気を取り直し、願わくばまた、新たな泳ぎをはじめねばならない。幸せ、友情、感動、愛、こうしたつかの間の心の安らぎを求めて、また泳ぎはじめるのだ。

灰は灰に、塵は塵に、再会の時を待って母なる海(ハドソン川?)に身をゆだねる。でも僕は泳ぎ続ける。ただの馬鹿かもしれないが、明日は明日の風がふくと、信じてやまない。そしてひたすら泳ぐ。再びハローをいう、その日まで。

7年目の今年は、そんなことを考えている。




1. 言語なんて、すべてを忠実に分析しているようでいて、実をいうと、思いこみで補っている部分が結構多いのだろうな、と最近強く思う。分からない外国語で映画をみながら、何がおきているか分かっているつもりになっている自分を振り返って、特に思う。

スーパーでも思う。ドイツ語わからなくたって、スーパーのレジのおばちゃんがなんだかペラペラペラとかいって、ヤーヤー、ダンケ、チュースとか適当に返事しておいた直後、なんだか完全にわかった気になることが時々あるのだ。状況とか目線とか相手の表情とかで。本当はまったく別のことを言ったのかもしれないけれども、完全にわかった『気』になるという意味では、立派に言語の機能を果たしている。これは別に外国語に限らず、日本語とか英語とかを使っているときでも、本質的にはかわりないのかもしれない。

だから、言語は、なかなか、機械には難しいのだ。

2. James BondもJason Bourneも、頭文字は同じJB。

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