[本・一般] ●●●●○ Why I Am a Catholic
Perplexed in faith, but pure in deeds,
At last he beat his music out.
There lives more faith in honest doubt,
Believe me, than in half the creeds.
--Alfred Lord Tennyson, In Memoriam, XCIV
現代において、宗教を信じることは難しい。片や無神論を唱えたくなるような浮き世の惨事が相次ぎ、片やどの宗教にも欠かすことのできない奇跡みたいなものが、科学の基準では「本当」には起きえない、ということもある。どの既存の宗教の聖典をとっても、オーム教の「座禅を組んで浮かびました」的な危うさはどこかしらある気がする。その上、米国の組織的宗教は、プロテスタント、カトリックを問わず、近頃、不祥事が絶えない。
しかし同時に、現代科学の頭打ちや自由主義の頓挫を前にして、現代人?の一部は宗教原理主義にすがっている。すがりまではしなくとも、何かしら生きる基盤を求める気持ちは、浮き草のような現代人にある程度共通するものだと考えられる。特に机上の空論のようなアメリカという国に生きていると、精神生活の基盤を宗教に求めざるを得ない気持ちは、よく分かる。
この宗教をめぐる矛盾をどう解消するか。「信仰のある者には説明は不要である。信仰のない者には、説明は不能である。」というそうだが、現代人には、anti-intellectualな開き直りにしか聞こえない。そして現代アメリカに目を移すと、60年代あたりから急速にヨーロッパ文化を模したアメリカの文化基盤が打破されてきた中で、唯一残る有形的文化基盤である宗教に対する姿勢取りは、アメリカン・インテレクチュアルの目下の急題となっている。この本はまさに、この矛盾と格闘しおり、売れるのも無理はない。
著者はイエズス会に志願して入会したこともあるという著名な左派カトリック・インテレクチュアルであり、本書の第1部はカトリック教会とイエズス会教育にどっぷりつかって育った著者の回顧録である。もっともページ数の多い第2部は教皇史であり、「教皇」という機関の歴史的な成り立ちを追っている。第3部は本題の「Why I Am a Catholic」に対する直接の答え、基本的な信仰宣言である使徒信条に対する個人的な共感の解説である。
主要な論旨としては、「教皇はキリスト教徒・公教会の一致の象徴である」という天皇機関説のようなものと、「教皇は教会史の中では比較的遅くに発達したもので歴史的にも多くの過ちを犯しており、不可謬などということはなく、教会の指導者ではあっても、教会の主体はあくまでも信徒一人一人である」といった教皇という機関の歴史的・批判的解釈だ。
さらに、第二バチカン公会議においてなされた教義の改革を肯定的にとらえ、それに逆らう(と著者が捉える)執筆当時の教皇(ヨハネパウロ2世)とラトジンガー枢機卿(現教皇)を痛烈に批している。避妊問題などを例に、教皇を中心とするヒエラルキーが間違った方向に歩む場合は、教会の本来の主体である信徒が彼らを正しい方向に導かなくてはならない、とする。
日本人(一応)としては、日本的汎神論・多宗教主義の文脈の中で、別にそう大上段に振りかぶることもなかろうに、と思いもする。そもそも宗教とは結局文化基盤・社会習慣の一種なのだから、「結婚は教会・葬式は寺」みたいなあり方に僕は違和感を覚えない。
あるいは、単純なる還元論を超えんとする現代科学の徒としては、何千年にわたって人心を引きつけてやまない既存宗教の枠組みは、社会進化学的・脳科学的にいって、よっぽどうまいところをついているのだろうと思う。有象無象の新興宗教が勃興してゆくのをみていると、とりわけ、何千年にもわたって残る既存宗教という現象の凄さが分かる。人間社会・人間心理のツボにはまっているのだ。
そしてたとえカソリックというカフェテリアで食事していても、外食もしたい。人間心理のツボは、ひとつに限ったもではあるまい。
結局のところ本書は、「教皇がそんなに重要な機関なら、つまみ食いせず、すべての教義に従え」という反論や、「そこまで教皇絶対主義がいやならなぜプロテスタントにならないのか」という反論には、答え得ていない。その意味では、「Why I Am a Catholic」の説明には、ちっともなっていない。がその苦闘の様子は読みがいがあるし、同じ近辺を彷徨う者にはわかる気がする。そう考えると、「信仰のない者には...」というのは、開き直りのようでいて絶妙に的を射ているのかもしれない。
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