2007/07/21

[旅日記] 原点への回帰(3) 記憶の原風景

動物の感覚とは、すでに脳内に形成されているネットワークが感覚刺激と共鳴するような形で行われる、という、徐々に勢いを盛り返しつつある考え方がある。感覚とはつまり、外にあるものを内にとりこむのではなく、内にある既定のパターンを外に見いだすことである、という思考の逆転だ。

そう考えると、外界をしっかりととらえるためには、自分の中にしっかりとしたtemplateが必要であり、その雛形が充実していればいるほど感覚は確かなものとなり、豊かなものとなる。その雛形を確認しに、僕は原点に回帰するのだ。

内在的なパターンの重要性は、意識下の営為についてもいえる。たとえば「呼吸」というほとんど無意識の脳幹・脊髄反射にしたって、それは生まれ育った地の空気に適合したリズムをどこかに保っている。もうちょっと複雑な「歩行」などということとなると、まさにその地とその地に息づく人々のリズムが具現化するものだ。だから、Bostonの町を歩くのは僕にとって心地よいものであり、別段意識しなくとも、都会人という回遊魚の群れに入り込める。逆にNew Yorkの街を歩こうとすると、それだけで疲れてしまう。



別に、Boston人がNew Yorkに移住し、New Yorkの息づかいを内在化する、ということを否定するわけではない。ただ、あまりに世界を右往左往していてると、どこかで、自我の内的coherenceが失われる閾値に達してしまいやすい。

自我をオーケストラにたとえれば、団員が皆、同じ指揮者のもとで同じ曲を弾いているから成り立つのであって、その約束が失われると、一瞬は「前衛的」といえなくもないようなオトが生じるが、結局それは完結しないchaosになりかねない。僕にとっての原点への回帰は、前衛芸術家が写実的な習作を描く意義にも近いと思う。

さらに別のmetaphorを使うと、アメリカ人がアメリカ人なりのドイツ音楽を奏でていけない理由はないし、極端に言えば、和楽器を奏でてもよい。しかし、西洋式オーケストラが休憩をはさんで、みんな琴や笙に持ち替えて、などということはどだい無理で、一瞬のexoticism以上の魅力は持ち得ない。逆に、僕にとっての原点への回帰は、たとえば、オーケストラの音楽監督が、オール・ベートーベン・プログラムを組むようなものだろう。僕の場合は半分ひらがなの「Beethoーべん」かもしれないが。

さらにことを悪くしているのが、もう住んで5年にもなるWashingtonという町。一見すると超コスモポリタンでvibrantな世界の首都だが、政府にしたって外交にしたって人の入れ替わりが激しいから、固有のリズムが希薄である。Washingtonという町の活気は、活魚の刺身がピクピク動くのに似ていて、動いてはいるのだが、その筋細胞たちはもはや目的もcontextも失っている。そんなこんなで、僕は、原点に回帰するのだ。



話をちょっと、歩行に戻す。幼児期に歩行できるようになってから、ヒトはよっぽどのケガでもなければ、一生、無意識のうちにこれを執り行う。しかし考えればこれ、驚異的である。20歳近くまで、ヒトの骨格はめまぐるしい変化を繰り返す。筋力だって、トレーニングや筋肉痛などによって、著しく変化する。でも、歩行は何も変わらなかったかのように、続行する。幼児期に学習した基本的な歩行パターン 1を、刻一刻と調節するから、一生、同じ歩行という運動を続けることができるのだ。

人によって歩き方はそれぞれで独特だが、骨格の著しい変化にもかかわらずこれが維持されるということは、幼児期の歩行の雛形が非常に強い拘束力を持つことを示唆している。

思考のような「高等な」ものも、実をいうと似ているのではないかと思う。幼児期あたりに形成した礎に、複雑に上積みすることはあっても、精神の分裂を来さずにその雛形を根底から改変・超克することはむずかしいのではないか。内的な精神世界の雛形は読書・経験などによってどんどん複雑になってゆき、ピラミッドのように基底に積み重なってゆく。それぞれの直面する外的世界と呼応する形でピラミッドの上の方はmodifyされていくが、思考パターンの根本にあるピラミッドの基底をほじくり返すことは、成人には不可能ではないか。

だから、人生の局面にいたって、自分の基底を再確認する必要が生じると、僕は考える。それを意識して、重心をrecalibrateしないと、ピラミッドは安定感を失って伸び悩むことであろう。そして、happyにはなれない。だから「地」に足の着いた生き方(ピラミッド構成)を目指すのであれば、定期的に原点なる「地」に戻り、内的なrepresentationを更新しなくてはならない。地の呼吸や都市の息づかいに身をゆだね、その力を借りながら、時とともにずれてきた表層の体内時計を、自分の奥深くで脈打っているものにrecalibrateしなくてはならない。


内にあるパターンは静的なものだが、外的世界は徐々に変化してゆく。だから、「地」に足のついた人間性を維持するためには、定期的に原点なる「地」に戻り、内的なrepresentationを更新しなくてはならない。地の呼吸や都市の息づかいに身をゆだね、時とともにずれてきた体内時計を、recalibrateしなくてはならない。




4、5歳まで住んでいたアパートの近くの公園。写真奥の丘の樹はoak(樫)でどんぐりを転がしながら「どんぐりころころ」を歌った。


公園の奥にはちょっとした池と「自然保護区」が。ピーターと狼を聞くと、ここの柵を思い出す、ボストンの町中に狼などいようはずもないが、柵の向こうはきっと、「イッチャダメヨ」だったのだろう。




1. 厳密には、「幼児期に学習した」というのはちょっと違う可能性もある。動物の脳幹を上の方で分断しても、支えれての4足歩行は可能なので、人間の2足歩行とて、幼児期の学習以前の、遺伝子によるマスタープランに支配されている部分もあると考えられる。

5 件のコメント:

Mark Waterman さんのコメント...

理屈は理屈ですが、またブロッグはブロッグですが、科学となると危ないな。(もちろん承知の上だろうけど。)

MWW

gawky さんのコメント...

こんにちは、もう若干、コメントをご説明いただけませんか?わかるような気もするのですが、誤解の可能性も高いので。

Mark Waterman さんのコメント...

お早うございます。レスも早いですね。私が問題だなと思った箇所は、

>内にあるパターンは静的なものだが、外的世界は徐々に変化してゆく。だから、「地」に足のついた人間性を維持するためには、定期的に原点なる「地」に戻り、内的なrepresentationを更新しなくてはならない。地の呼吸や都市の息づかいに身をゆだね、時とともにずれてきた体内時計を、recalibrateしなくてはならない。

です。個人的なこと(理屈と blog)なら詩的に素敵で私も個人的に好きですが、一般化できるデータ(科学)をお持ちですか。また、内的パターンが静的なものだと言っておいて、Gawky さんが言っている「原点」なるものは、実は変化して止まない外的世界の中にある(たまたま幼児期の)一点にすぎない。誤解されないように、内的と外的の再説明が必要ですね。

Gawky さんの鋭い感性(私情的詩情)が方法論(科学としての)上の思想(idea)と結びつくと、変に納得させられそうで「危険」な思い(誤解かもしれません)をしたものですから。しかも、recalibrate するといっても、どうやってすればよいのか。仮に、定期的に生まれ故郷に帰ることだとしても、そんなものを持ち合わせなかったり(ボストンが20年くらいで変化しなかったのは単なる幸運です)、次の20年で変化しない保障もない。

以上の説明で足りませんか。(いや、実のところ、私が引越しの度に新たな外的変化を受けたことを内面での成長と捉えていたのですが、ひょっとしたら Gawky さんのお考えのように、もともとの gene も含めた内面に帰っているだけなのかもしれません。もしそうなら、怖いな。)

Mark W. Waterman, Ph.D.

gawky さんのコメント...

おはようございます。実をいうと時間設定を変更していなかっただけで、ちっとも早くはなく、ドイツでは昼過ぎでした。

ところでこのブログの話、言葉足らずは承知ですが、結構まじめに、こう思っています。人間の思考・精神活動は、重積的に、幼児の原体験に依存している、と。ただ、たしかに、ここ(↑)では幼稚な感傷主義に映りやすいので、当座、少し斜体で書き足してみました。

おっしゃるとおり、議論の進め方はちっともscientificではありません。ただ、こういう直感的(文学的・詩的というのはあまりにも僭越なので)なテーゼの合理性を示唆するようなscienceを、僕のキャリアのあいだに達成することが、全く不可能であるとあきらめてはいません。

Mark Waterman さんのコメント...

Guten Abend! まだ寝てませんね。

>人生の局面にいたって、自分の基底を再確認する必要が生じると、僕は考える。それを意識して、重心をrecalibrateしないと、ピラミッドは安定感を失って伸び悩むことであろう。

この書き直しはよくわかるし、同感です。ただ、これは人によって異なるかもしれません。私は一昨年生まれ故郷に十数年ぶりで帰り(?)ましたが、そのようなものは感じませんでした。むしろ、「地」とは別のある「状況」の中に回帰すると Gawky さんの言っているような安定感と跳躍の意欲に満たされることがあります。

>直感的(文学的・詩的というのはあまりにも僭越なので)なテーゼの合理性を示唆するようなscienceを、僕のキャリアのあいだに達成することが、全く不可能であるとあきらめてはいません。

私もそれが不可能とは言っておりません。むしろ、頑張ってほしいと思っています。

MWW