[実験屋日記] Science in Japan Forum (2)
(続き)
Emailで突然、今投稿中の論文の編集部から注文が来たので、フォーラムの第2部は失礼して喫茶店で仕事。
フォーラムの第3部は、Science Policyについて。NSF1のお偉いさんと、文科省(学振)のお偉いさんがお話をしていた。
NSFのお偉いさん曰く、
Not everything that counts can be [easily] counted
...とはいうものの、国家予算を投資するにあたっては、accountabilityが必要だ、と。そこら辺は、venture capitalの投資と同様、リスクとリターンの見極めが必要だそうだ。いかにevidenceに基づいて血税を賢く投資し、科学を通して社会の福利につなげていくかというのが課題だという。
聞こえはよいが、会衆からはたくさんの文句が。「スイスの特許局は、何のevidenceに基づいて相対性理論の研究をsubsidizeしていたであろうか?」「最初の加速機の科研費申請書は9ページしかなかったんですよ。最初から何百ページの申請書が書けるほど分かっていたら、研究の必要はないではないか。」あるひとは、有名な物理学者のR.R. Wilsonの、核物理学(および基礎科学一般)の重要性に関する以下のコメントに触れた。
... It has only to do with the respect with which we regard one another, the dignity of men, our love of culture. It has to do with: Are we good painters, good sculptors, great poets? I mean all the things we really venerate in our country and are patriotic about. It has nothing to do directly with defending our country except to make it worth defending.
特に、昨今のように「科学者」人口が膨脹し、予算が縮小していく中にあって、この問題は重大である。まあ、金が厳しいようではいい研究はできない、と片付けてしまうのも簡単である。
衝撃の事実。
米国の基礎研究の国家予算は、今までほとんどがNIHを通して医学系の研究に投入されてきたが、これからは徐々にエネルギー研究の方を拡張してゆく予定だ、とのこと。昨今のような財政下では、それはとりもなおさず、NIHの予算縮小を意味する。
まあこれをいっていたのがNSFのお役人だから、この発言には縄張り拡大をみこんだ若干の希望的観測も含まれているかもしれないが、それにしても、国益にはかなった方針とも考えられ2、もしもこれが本当ならば、ますますこの国の生物系研究の先行きは危うい。
一方日本では、innovationを推進することを標語に、より一層の研究資金の集中化が掲げられているようだ。あとinnovationといえば、若手の養成も標語だそうだ。
これを合わせて読み解くと「帝大系の大ボス達の支配権を拡張し、さらに彼らの配下となるwhite collar労働力も準備いたしましょう」とはならないか?いや、これは曲解だろう3。確かに、若手の研究者としての独立を目指した科研費制度を拡充しているらしいので。
1. National Science Foundation... アメリカ基礎科学の科研費を取り扱う団体、ただし医学系生物学をのぞく。他の科研費支給団体としては、予算規模最大のNIH(National Institutes of Health、医学と主に哺乳類・細胞生物学系統の生物学)、DOE(Department of Energy、主に物理学関係)、DOD(Department of Defense、主にハイテク関連、脳科学分野ではゴキブリ研究・猿の脳に電極を突っ込んで脳波から考えを察知する研究・MRIを使った嘘探知などといった類、あと、軍人医療関連の医療研究もある)、NASA、など。
2. NIH関連の研究によって得られるhealth benefitは、公衆衛生という国家単位の立場からするとmarginalなものだと考えられる。むしろアメリカの健康保険の惨状と、肥満をはじめとする生活習慣のひどさを考えると、NIHの予算を全て国民皆保険と予防医療にまわした方が、国家の健康は増進するに決まっている。さらに、エネルギー浪費大国を修正しないと、健康なんていっている場合ではなくなる。
3. そう考えたい
3 件のコメント:
蕩尽亭です。いまやビッグサイエンスの終焉の時代ってことですかねぃ。
原子力関係の研究室に学生が集まらなくなって、もう幾歳月。ついにそれが物理離れにまで及び、いまや日本では、東大や東工大の物理学科が定員割れする時代に相成りました。科学立国なんて、もはや悪い冗談のようなもの。優秀なやつはみんな海外に出てゆく。まともなやつが誰も残らない。
ついこないだ小柴昌俊がノーベル賞を取り、マスコミがやたら騒いだじゃないですか。で、カンちがいして、目をキラキラさせた学生が物理教室に殺到したかと言えば、その逆。もう湯川秀樹の時代じゃない。そもそも小柴さんにしてからが。。
ノーベル賞をもらうような長老たちは「お役人さん達を相手に夢を売るのが商売」と成り果てている。政治家と変わらない。そんなことでは若者を惹きつけられない。そんな学問は廃れる。これが世の習い。物理学は20世紀の流行学問だった。いまや流行は終わった。
「なんだおまえら、ホラを吹いて俺らの分の金までブン取りやがって」というのは、そのとおりでしょ。おなじ物理の同業者にしても、いいかげん頭に来てる。現状の原発さえ制御するのがむずかしいのに、それ以上の核のエネルギー利用が容易にできるわけがない。
人間の手に負えないという事実がもう誰の目にもあきらか。よほどの技術革新に伴われなければならない。にもかかわらず、若い優秀な才能はもう核研究には集まらない。昔の夢を追うジイさま方ばかり。法螺ばかり上手くなった。カラオケ名人のようなもの(笑)
いつぞや日本人のモノ信仰の話をしましたが、いまの物理学には、日本人が求めるような堅固なモノ概念が存在しない。モノじゃなくて、ヒモだ(笑)ということになると、ヒトが集まらない。そんな一因もあるのかも。先端物理はあきらかに哲学の領域にまで(てか宗教?)踏み込んでますからねぃ。
かくして、いまや脳科学が全盛を迎えているわけですが、脳もモノであるかぎりは物理が働いているわけで、そこらを解明するには物理学の知識も依然として必要でしょう。いまや日本の高校で物理を履修する学生は全体の2割とか3割らしい。大学全入で、そんな連中でも学校に入れる。で、流行だというんで脳科学やら生物学やらにワッと押し寄せる。いやはや。
このままでは日本に未来なんかない。さすがに誰の目にも危機的状況が見えるようになってきた。にもかかわらず、あいかわらず昔ながらのボスどうしの談合、および仕事の差配が研究だと思い込んでいる人たちが沢山いて、そこらは土建屋とおなじ。いくら危機感を抱いた上のほうが禁止しようとしても、習い性となっていて無くならない。
やはり苦労してでも医学の勉強をつづけるのは大切みたいですね。脳だけじゃ、潰しが利かないヨ。今の流行は長続きしないと思います。人体の一部が脳であり、脳が人体の全てじゃないですからネ。あたりまえのことが見えなくなっている。
ご無沙汰いたしております。いつも、僕のことば(考え?)が至らないところまで上手く受け止めていただいて、ありがとうございます。爽快な気分になります。
>いまや脳科学が全盛を迎えているわけですが、脳もモノである
>かぎりは物理が働いているわけで、そこらを解明する
>には物理学の知識も依然として必要でしょう。
高校では主に生物学ではなく物理学(と化学)を履修したのですが、これは、まさにそのとおりだと思います。さらにいうと、(A)現代の自然科学の流儀は全て Newtonあたりに端を発している」ことと、(B)脳科学は神経細胞の微少な電位を測ったり、脳波・画像など複雑なデータを解析することが本流なので、工学系に強くないとお話にならない」という2点からも、高校生の時に物理学をたたき込むことは重要と考えられます。
>あいかわらず昔ながらのボスどうしの談合、および仕事の
>差配が研究だと思い込んでいる人たちが沢山いて、そこらは
>土建屋とおなじ。
昔ながら、なのでしょうかねえ。もう少しは過去を美化したい気もするのですが。人口が少なかった時代には、もう少し紳士然としていられたのでは?まあでもあまりこういうことを言いすぎると、一応匿名ブログですが、偉くなれないな~。
>やはり苦労してでも医学の勉強をつづけるのは大切
>みたいですね。脳だけじゃ、潰しが利かないヨ。今の流行は
>長続きしないと思います。人体の一部が脳であり、
>脳が人体の全てじゃないですからネ。あたりまえのことが
>見えなくなっている。
学問は総合的な知識に裏打ちされていないと危うい。脳が金魚鉢に浮かんでいるわけではない。医学だけではない、古典的には、医者でない生物学者達たちは本当の「生物学」を修めて、いろいろな動植物について網羅的に知っていた。ドイツとかではまだ、そういう伝統が息を残しているらしい、ドイツ人の親友・同僚は「生物学」だが、ハイキングに行くと、異国の植物でもラテン語を知っているんですよ。一般名すら怪しいような僕は、「生物学者」を名乗ってはいけない、と彼は感じるらしい。
それが、1950年代あたりに微生物学・分子「生物学」がはやりだしてから、物理屋でもちょっとフラスコに菌を増やす方法さえ知っていれば「生物学」に転向できるようになってしまった。いまでは、物理屋などというステップをすっ飛ばして、ちょっとフラスコに菌を増やす方法だけ知っている、とか。しかも、ポピュラーな実験方法はどんどんキットとして市販されているので(学研の付録と一緒)、「ちょっとフラスコに菌を増やす方法」すら怪しくてもOKだったり。
カラオケ名人。蕩尽先生のキーワードをお借りすると、ようするに、有機的な学問が必要なのですな。夢だけじゃなくて、お金だけじゃなくて。
# ヒト、カネ、サイエンス(蕩尽亭)
「昔はよかった」な〜んてことはきっとなく、おそらく今も昔も似たりよったりなんでしょう。ただ昔は、ヒトの動きも、モノやカネの流れも限られていた。閉じた社会のなかで、ものごとは丸く収まった。あるいは無理にでも収める知恵があった。
狭い社会には狭い社会なりの知恵があり、それがいわば身を律するモラルのようになっていた。70年代ぐらいまではそれでやって行けた。その後、社会は大きく変わり、学問自体も変わった。自分を律するという発想自体がきれいさっぱり無くなった。自分の内側に目が向かうということがない。もっぱら外の、世間の目だけを気にしている。
子曰、古之學者為己、今之學者為人。
(子 曰く、古の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす。)
しょせん「人の為」だから、世間にバレなければ何をやってもいいと思う。いや、世間の耳目を引くためなら何でもやる。実際、世間を動かすだけの力がないとカネも動かない。カネが動かなければ、学問も立ち行かない。ましてサイエンスはますます産業化し、巨大化するばかり。
昔は小説家のように紙とペンがあれば済んだものが、いまや科学者は映画監督のようなもの。ハリウッド並みの超大作を創ることが各人に要求される。カネも要るし、ヒトも集めなきゃならん。なにより政治力がたいせつ。
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)などを読むと、ホント、今のアメリカの科学者って(本人の向き不向きは別に)中小企業のシャチョさんのようなもの。1つ1つの研究室がベンチャー企業のようになってる。そのプレッシャーたるや、途方もない。競争に敗れれば、すぐさま退場を迫られる。ナメコ?研究だかに戻らにゃならん。
でも、その非情さにより社会の活力が保たれている側面もあるんでしょう。日本の場合、そんな外からのチェックがさっぱり働かないから、トンデモナイ話がごろごろしてる。国民の年金記録5千万件をどこかに無くし、それでも涼しい顔の社保庁あたりと一緒。カフカ的迷宮になっている。
そんなお寒い状況下で、かつてのモラルを取り戻せとか、サムライの心根を思い出せ、とかやっても無意味で、カネやヒトが流れる仕組みを1から創り直さなければ、もうダメだと思います。ヨーロッパ中世の大学じゃないんだから、学者先生の自治なんかに任せてたら事態は悪化するばかり。本人たちには極楽かもしれないけど、まともな若い人がイヤがって、寄りつかなくなってる。
某国立大の理系のひとに聴いた話だけど、面接日ごとに突然キレ、机をバンバン叩きながら小1時間も院生を罵りつづけるセンセーとかがいるらしい。モノは投げる。錯乱して床は転げまわる。なにが気に入らないんだか、杳として知れない。生きた心地もしない。目の前で定期的にこれをやられて、人間不信のトラウマになってしまったとか。まあ、他人事なら笑えるけどサ。ひとの痛みは100年我慢できる(笑)そんなわけで、表沙汰になっているもの以外に、ひどい話が多々ある。人権侵害も甚だしい。
個人の倫理や良心に訴えてもとうに手遅れ。仕組みそのものを改め、もっと風通しのいいシステムにしなければ。で、それはたんにアメリカを真似ればいいというものじゃない。自分のことは自分で考えねばならない。でも、そんな気概が残っているのかな、日本には?
「学問は総合的な知識に裏打ちされていないと危うい」というのも仰るとおり。ただコレ、各人のやる気に任せているだけではどうにもならない。仕組みとして、総合性を目ざすような学問領域を新たに創成しなければ。というか、哲学というのは本来そうしたものだったはずなんですがネ。ま、自分のことを棚に上げて言うのもなんだけど(笑)それなりに各人が出来る範囲で。
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