[雑記] Cogitas, ergo sum
二人称で向き合ったものに、intentを読み取る、これがhomo sapiensの本質とみた1。
人は雲に、朝日に、流れ星に、それぞれ、intentを感じずにはいられない。元来それは、「神」や「自然の摂理」などとして認知された。「擬人化」というやつも、これだから根深い、実をいうと人間の認知の基礎から生じるものではないか。何も考えずに生きているかもしれない他人にもintentを感じるし、客体化した自己についてだって、自分では意志を持って行動していると信じて止まない。こうした認知が、社会2を構成し、情報伝達を執り行う上でいたって便利だったのであろう。だから進化の争いの中で僕らは、蜂よりも、蟻よりも、猿よりも、優位に立てたのではないか。
科学により、雲にも、朝日にも、流れ星にも、それぞれstoryが充てられた。自然現象のほとんど全てが「科学法則」という見えない他己のintentとして捉えられるようになってからというもの、「神」はすっかり陰を潜めた。だがそれは雲の上の髭のおじいさんを、科学という透明人間に置き換えたに過ぎない。もちろん前述の「進化」というstoryも一種の髭爺である。こういう筋ではなしを進めるとatheismは簡単に片付けられてしまうし、さらに、真のagnostisismも存在しえないのかもしれない。
最近、偉い科学者による「私は何故キリスト教徒か」といった類の信仰告白があいついで上梓されている。これは差し詰め、還元論的生物学という髭爺が壁にぶつかっていることの、必然の帰結とみられる。やっぱり何かしらの髭爺は必要なのだ。逆に実験屋としての流儀を捨てずに面白いオハナシを作りつづけるためには、あらたな髭爺をこさえねばなるまい。
夏にドイツ?に移るまでは、ひたすらこれまでの実験をまとめるだけであり、新規の生物学的思索にはあまり迫られない。よって、ここら辺のことをちょいと考えてみようかと思う。Amen.
1. 類人猿(ゴリラ、チンパンジーなど)でも、鏡の自分をみて自己と認識することが出来る(猿にはこれすら出来ない)。ところが、類人猿でもさすがに、他己にintentをascribeすることは出来ないのではないだろうか... 霊長類認知学の教科書を再読すべし。
2. <社会>≒<情報を共有することによって多数の生物分子が一体となって構成し(固体)、変化し(液体)、ぶつかり合う(気体)ことをとおし、分子一つからは帰納しきれないemergentなbehaviorを示す現象>
2 件のコメント:
少し似たようなことを、宮本久雄氏などは、アウグスティヌスの『告白』を解
釈する文脈で、cogitor ergo sum(「私は知られている、ゆえに、私はある」)
などと受動態で言っていますね。
<偉い科学者による「私は何故キリスト教徒か」といった類の信仰告白>って、
具体的にどういうのがあるんですか?よかったら教えてください。
若干時差ぼけぎみで寝られないときにぼけっと考えたことですが、時間があればちょっと、養老孟司風に「脳科学」を「援用」しながらもうすこし丁寧に書きまとめたら面白いような気もしています。?
「偉い科学者による信仰告白」というのは これをイメージして書きました。他にもあったような気がしますが、思い出せません。
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