[本・一般]●●●●● 深い河
深い河
遠藤周作
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悩み事があるときに本を読む習性は、昔から変わっていない。アメリカの親元を離れて夏の2ヶ月間、日本の小学校に通わされたときもそうだった。家族とともに日本に渡って、手離された風船のように彷徨っていたころもそうだった。大学受験のころも、メディカルスクール受験のころもそうだった。本の世界とは、逃げ込むものをいつでも抱擁する、深い河なのであろう。日々の些事は気にも掛けずただ流れる、深い河なのであろう。
ふとこの本が読みたくなって、大学の総合図書館に立ち寄った。地下の奥深い書架には人気もないが、日本文学の書架がずらりと並んでいる。不思議なもので、日本での大学時代は薄暗い書架に横文字を求めたものだ。
「面従腹背」、久しく遭遇しない言葉である。小説の中ではインドに対する深い思い入れを抱きながらも職がなく、致し方なく観光客のガイドをする青年の、観光客に対する鬱屈した態度にあてられていた。面従腹背、日本社会における賢い生き方の凝縮、いや、世界共通の賢い生き方の一型かもしれない。
一方、自省するに、僕自身はむしろ腹従面背の傾向がある。深いところではあるものに意識的・無意識的に共感しつつも、細則の解釈については自由気儘、斜に構えて時には反抗的ですらある。今現在のボスとの関係もそうだし、サイエンス一般に対する態度や、カソリシズムに対するスタンスもそういえるかもしれないし、日本人らしさ・アメリカ人らしさなどといったことに関してもまさにそのとおりであると思う。本書に登場する不器用な日本人神父である大津も、腹従面背の徒であった。神父になるほどにカソリシズムを介して神なるものを感じながらも、西洋的なdoctrineの全てを鵜呑みにすることはできず、かといって表面を繕うこともできず、教会からは爪弾きにあう。
その文脈でいうと、遠藤の描く深い河は面から飛び込むものではなく、腹から飛び込むもの。その流れに身をまかせて沐浴したら、母なる流れは、表面の些事を全て洗い流してしまうのだ。と信じたい。日系アメリカ人そして帰国子女であった少年の彷徨える自我は、日常的な価値観の急な変化に直面して表面的なことの著しいarbitrarinessを悟り、面従の道をshunし、いつしか、この汎神論的・汎亜州的な深い河への巡礼を開始していたのかもしれない。
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