[映画]●●●●● The Believer (2001)
The Believer (2001)
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ある日テレビをつけたらこの映画をやっていた。テーマがedgyでどの配給会社も引き受けず、よって、ケーブルテレビでの上映となったらしい。Sundance映画祭の大賞を受賞している。
筋としては、イェシーバーで常に教義に対し反抗的であったニューヨークのユダヤ教少年が成長してネオナチのスキンヘッドとなるが、反ユダヤ活動を行っていくうちに自らの精神の根底にあるユダヤ教の潜流に気づき、その矛盾を解消できずに自滅するというもの。
ユダヤ人の自己嫌悪というのはもはや、cliché中のclichéであるが、この映画はそのclichéをあつかったもののようでありながら、より深い次元では、痛烈な「アメリカ文化」批判なのである。
真の文化というものは、人間の進化とともに何十世代もかけて醸成され、人間存在の全て(衣・食・住・言語・文学・音楽・歴史・・・)を包摂するものである。こう定義すると、「アメリカ文化」という基盤は、実は、ひどく貧弱なものだ。(ヨーロッパ文化に根ざした上流階層もまだ存在するのかもしれぬ。ほかには、ユダヤ人もなんとか文化を守り抜いている。これらは、本論の「アメリカ文化」に含まない。)
大衆はこの「アメリカ文化」という虚構を自我のよりどころにするものだから、やたらに国粋主義に熱しやすい。「アメリカ文化」というルーツは、星条旗のように薄っぺらいものなのだ。イラクがどんなにひどいことになっても、大半の人は<作戦遂行が悪かった>と考え、<アメリカの行ったことは根本的に間違っていた>という見方は少ない。<アメリカ=悪>という可能性は、脳裏に許容すらできない。その可能性を許すと、自我が崩壊してしまう。
「アメリカ文化」という虚構はむしろ、歴史上、異文化の排斥によって守られてきた。黒人の排斥、カトリック(アイルランド、イタリアの新欧州移民)の排斥、ロシア(共産主義)の排斥、黄禍の排斥、中南米移民の排斥…… アメリカ文化の虚構は、消去法によって辛うじて成立してきたのである。これらの異文化は、はっきりとした境界線と定義があるため、その境界を借りて、アメリカの文化実態が定義されてきた。ところが、これらの排斥対象も、アメリカという坩堝で2~3世代を経ると、姿形なく希釈されてしまう。排斥するものがなくなると、<肯定的な定義がないアメリカ文化>の不安定さが露見してしまうため、新たな標的が必要となる。現在はアラブ排斥だろう。
「アメリカ文化」はこうしたブラックホールのような存在であるため、「Japanese-American culture」などというsynthesisは根源から不安定である。灰色の絵の具に、ほかの色を混ぜ込むとしよう。最初は美しい色の渦が現れるが、それは一過的な美であり、混ぜているうちにすぐに灰色の混沌と化してしまう。
映画の主人公は、被加虐民族としてのユダヤ人の自我が嫌で、そのアンチテーゼとして、反ユダヤ主義に傾いた。つもりであった。しかし、<消去法による定義は排斥対象の存在なくしては成立しない>という矛盾に徐々に気づき、苦しむ。ある時点では、トーラを唱えながらジーグハイルのポーズを取る。しかし、消去法によって定義されたアンチテーゼは、synthesisへの昇華を拒む。これは、アメリカの矛盾でもある。そして主人公には、自滅という選択肢しか残されなかった。
この混乱は、「アメリカ文化」にあってひとつの定型である。帰国子女とか、移民1.5世(子供の頃に移民)の悩みも、まさにこの点に帰着する。<I am Japanese>というのと<I am American (= I am NOT Japanese)>というのは、統合することが出来ないのだ。
こう分析すると、20余年を掛けて進化してきた僕自身の至適解も、苦肉の策といえよう。たとえば、「アメリカ人」としての自我を安定させるためには、もっとも近縁な基盤であるヨーロッパ文化や宗教に興味を向けざるを得ない(これは根深い文系コンプレックスにもつながる)。また、アメリカの中でも比較的文化基盤のしっかりしているscience/academeの世界に生きることに固執するのも、このためといえるかもしれない。
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