[映画]●●●○○ 12 Angry Men
12 Angry Men (1957)
十二人の怒れる男
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日本から当地にに引っ越してきて選挙登録を行ったら、半年もしないうちに早速、陪審員召集令状が届いた。ワシントンDC特別区は首都だけあって訴訟も多いらしい。さらに、典型的なドーナッツ型のスプロールで周囲の2州(メリーランド、ヴァージニア)から通勤する人が多く、実際の住人は多くないため、恒常的に陪審員不足であるという。
裁判の最初に、被告側と検察側との駆け引きで陪審員を選抜する。その当時はメディカルスクールの授業が怒濤のように押し寄せている時期だったので、長い裁判の陪審員にでも選ばれてしまったらたまらない。当日はスーツを着込み、いかにもopinionated(=傲慢・独善的・頑固)な面構えを決め込み、意を決して法廷に向かった(僕を知る人は、演技の必要もないというかもしれないが)。陪審員選抜の参考資料には鮮やかな藍色の万年筆で、とびきり学歴を強調して書いた。Gang-bangerに同情などするものか。この策が功を奏したのか、陪審員には選ばれずに一日ですんだ。
しかし、恐ろしい話である。学友の多くは何年もかけて法律を学び、難しい試験を受けていった。法律はそれほどに奥が深いものなのに、本すら開いたこともないようなズブの素人が法を適用せよ、というのだ。これはアメリカの<professionalに対するrespectの欠如>の表れと考える。医者だって、患者がインターネットで自己診断し、テレビのCMで覚えた特定の薬を要求したら、上手く対応しなければならない。これらは極端な例ではあるが、潜在意識としては広く浸透している。
一方、プロ野球選手や大企業のCEOには巨額の報酬を与えられ、これが社会的に許容されている。一見、前段落のテーゼと矛盾しているが、ここではこれも<professionalに対するrespectの欠如>、という枠組みの中でとらえてみよう。つまり、巨額報酬が許されるのは「僕だって・私だって」、という甘い考えがあるからではないか。別に巨人の星でなくとも、天才的な経営能力がなくとも、ある日やおらテレビの前から立ち上がって「俺だってアメリカンドリームを成し遂げるのだ」と。これだから、一日で自分の一生分の給料を稼ぐような人がわんさといても、革命が起きない。
付け足しの本論。以前、この映画をパロディーした劇映画(12人の優しい日本人)をみたことがあったが、日本の部分的な裁判員制度導入の話を聞き、本作を観るにいたった。一人の男がほかの陪審員を理論的に説き伏せて、有罪判決しか考えられないような状況から無罪判決にもっていく過程を描いたものである。しかし、恐ろしい話である。
1 件のコメント:
日本でもそのうち陪審員制度が始まるのでしょう?私も怖い話だと思っています。たいして人生経験もない、日常でも的確な判断に手をこまねいている私のような平凡な人がある日、人の運命を決定するカードを手にするなんて…。陪審員側になるとしても私にはそんなこと怖くって出来ないと思ってしまいます。そして、間違っても審議されるほうにはなりたくないですが、医療過誤訴訟などもこれから増えてくるでしょうし、臨床一筋でやっていくひとたちにとっては感情に走っただけの採決はとても怖い存在だと思います。弁護士の数も大分増えるようなのに、一般人が裁判に関わる利点って実際問題あるのでしょうか。理想ではいろいろ語れそうですが、疑問です。
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