[実験屋日記]学会日記(1-4) 国辱
このことばは好きではないが、こうとしか形容できないのだからしょうがない。学会の懇親会での話である。
神経学会は国際化をしようとしている、ということは前も述べた。そこで、著名な外国人が何人か呼ばれて、特別講演をしていた。そのお雇い外国人が、懇親会の席で冒頭に挨拶、ということであった。Dr. William Newsomeという著名な視覚・認知生理学者が最初に挨拶に立った。「日本に最初に来たのはちょうど20年前、ちょうとそこにいる田中啓治先生のお招きで、シンポジウムに参加したときである。そのときから、日本は大きく変わった……」という調子で、英語で挨拶が始まった。その当時はローマ字の看板が全くなく、迷子になってしまった話などをユーモアを交えてしばらくしたあと、「……でも、日本で変わっていないことが二つあり、それは人々の hospitalityと日本の脳科学研究がすばらしい結果を発表してきたことである。最近はますます日本のニューロサイエンスも良い方向に向かっている。そこで、日本のニューロサイエンスのさらなる発展を願って、toastをproposeしたい…」
司会の教授はそこで、Dr. Newsomeを止めた。乾杯の音頭は他に決まっているから、ということであろう。そんなことはアメリカ人に分かるわけがない、しかし説明も何もなく、何となく壇上から追い払われるようにしてDr. Newsomeは下がってゆく。まあ、乾杯の音頭というものの儀式上の重要性などを、全く解さない者ではない。だが、下がったDr. Newsomeに対し、この日本的風習を誰が説明するともなく、放っておかれている。よっぽど前にいってフォローをしようかとも思ったが、お雇い外人同士でなんとなく憮然と話しているものだから、一介の大学院生の入り込む隙はない。
Dr. Newsomeは、遠路はるばる、わざわざ日本というscientificな僻地にまで出向いて来てくださり、さらに、精一杯のほめことばとすばらしいスピーチを用意するという、たいそうな紳士ぶりである。それに対するこの失礼のなんたるや。こんな人たちの学会なら、鹿鳴館のような「国際化」を目指すのではなく、ただ、フジヤマ・サムライ・ゲイシャといった東洋僻地を演出することに徹してはどうか。
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