2006/11/26

[実験屋日記]実験屋がなぜ医学を学ぶか

僕は純粋な生物系の「実験屋」として生きたい。医者として患者に向かうことよりも、実験室で実験を行っていることに、より生き甲斐を感じる気がする。とはいえ、現在、メディカルスクールのMD/PhD課程で「研究医」になる教育を受けている。医学を学んでから純粋な「実験屋」になる研究者は少なくないが、医学を学ぶことは生物系の「実験屋」として生きる上で無駄ではないかという考え方もある。かつてドイツ人の友人から、この点について議論をふっかけられた。ドイツ人らしい(?)いたって理論的な猛攻であった。

確かに、医学を学ぶことは大変に時間・effortを要し、一個人にとっては大変な投資である。「医学」という「学」が、非常にunscientific な面を有していることも否めないし、広く浅く学ぶことにあてる労力をより深遠な方向に向かわせるという方針もある。また医学教育の社会はコストが高く、医学を学んでから完全に臨床を行わないことはある意味で、社会に対する暗黙の契約に違反する、と考える向きもある(この点についてはまた回を追って)。こういった難点を乗り越えるだけの、raisonを用意していなくてはなるまい。

議論をふっかけられて、当座は凌ぐことができたが、今ひとつ納得がいかず、半年ほどその点について考えを咀嚼してきたが(過去記事)、当面の落としどころとしてうまいたとえがみつかったので書きとめておきたい。

実験屋にとって医学を学ぶ意義とは、作家にとっての語彙を広める意義と同様である気がする。普通は、知らない言葉に遭遇したら、辞典を調べればよいだけだ。しかし、少し専門的な文章になると恐ろしく効率が悪い。日本語を知っているというだけで、理論的には僕にも、法律の日本語を読んで理解する能力がある。しかし、現実にはほとんど不可能であろう。書くとなるとなおさらである。いくらthesaurusのようなものを使ったところで、語彙にない言葉を有効に使うのは難しい。

実験屋稼業は、実験の結果たる"事実"をもとにstoryを紡ぐ、語り部のようなものだと思う。もしも大上段に振りかぶってカラダ全体におよぶような物語を吟誦しようと欲した場合、カラダ全体のことをある程度網羅的に知っていないと難しい。もちろん、網羅的に学ぶことによって細部への注意がそがれることは事実である。しかしいったんその選択をしたら、カラダに関する「学」を網羅的に学べるのは、医学である。確かに、生物学事典や教科書をひもといて到達できる境地ではある。が、暗黒に向かって流浪する勇気や見通しがわかないのも事実であり、たとえ駆け抜けただけでも旧知である土地には足を伸ばしやすい。

後付のリクツの気もしなくはないが、今となっては、僕はそういうスタイルの実験屋になるしかないのも事実であろう。

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