[本・一般]●●●●○ On Bullshit
On Bullshit
Harry G. Frankfurt
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The Importance of What We Care About
(“On Bullshit”を含む)
Harry G. Frankfurt
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最近ドイツの友人からこの本を紹介された。ドイツでは現在、話題の本であるという。彼とは前の研究室で一緒だったのだが、そこのボスこそいわゆる典型的なbullshitterであったので、内輪のジョークとして彼はこの本のリンクを送ってよこしたのだ。このbullshitということば、現象としてはアメリカの至るところでみられるのだが説明は難しい。まあ、あることないことベラベラ喋る感じであろうか。本書の結論から言うと、「bullshit」とは、事の真偽という価値基準の枠組みからからはずれたところで、自分の真意をまげて勝手な虚構をなすことであるという。そして、真偽という枠組みの中で真理を意識しつつ嘘をつくliarに比べ、bullshitterはさらに質が悪いという。このことば、友人同士の会話などでは出現頻度が高い。「あの最近の論文読んだ?とんでもないbullshitだね」「おいおい、その実験だけでそんなこといえるか? Bullshitもほどほどによせや(笑)」という具合だ(1)。
話は変わるが、ちょっと以前から思っていたことで、アメリカ社会での人物評価は、「ストーリー」にもとづいている。一人一人が語り部として、自分の存在意義を吹聴することが求められるのだ。政治家の例をとるとわかりやすい。クリントン元大統領は「ホープという名の町から来た少年(白人貧民からの成功物語)」、ブッシュ現大統領は「信仰によって道を改めた放蕩息子」(2)といった具合である。あるいは、大学や大学院の面接でも志望動機などをうまい具合にハナシに仕立てることが求められるが、その様子は友人が詳しく書いている。もともと国家としての通常の文化的な進化を経ずに突如出現したアメリカだからこそ、きちんと大義名分を宣言しておかないと浮き草のように所在が不明になってしまうのだろう。
なぜこんな脇道にそれたかというと、かく定義した「ストーリー」とは、実に、bullshitと紙一重である気がしてならないのだ。無論上述の「ストーリー」は本人が完全に信じ込むことを前提としている。ただ、bullshitだって、言っているうちにだんだん本人もその気になってくるものだし、逆に「ストーリー」が出来過ぎていて自分でしんどくなることだってあろう。また、本人の捉え方と客観的な捉え方が一致しないことだって、十分考え得る(どこかの大統領にしたって、「悪の枢軸」とか「テロリズムとの闘い」とか「本土で戦わなくてすむように、イラクで戦っているのだ」とか、本人はきっと真っ当なストーリー構成のつもりなのである)。
本書(といっても普通の活字にすれば17ページのエッセーであるが)の哲学的な論考としての質については、哲学のテの字も知らない私には判じかねるが、日頃、明快な自然科学の文体しか読んでいない実験屋からすると、言語中枢の体操にはなった。そして、先進世界が各々の文化を捨てて総アメリカ化、総浮き草化する中で、このbullshitの危険についても考えておいた方がよいように思うのだ。
(1) ちなみに、ひとつ注意を要するのは、この語は猥語[ルビswear word]にあたるため、正式な場や子供のいる場で口にすると品性を疑われる。
(2) しかしこれ本当に改まっているのか知らん。アル中は回復したようだが、失われたニューロンは回復はしないのですヨ。
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